2018/07/30 西早稲田散歩 02 諏訪町会国旗掲揚台/庚申塔/茶屋町通り/将棋の小さな博物館/亮朝院/亮朝院七面堂

この日記のエリアでは北に進む。
東西線沿線から都電荒川線沿いに向かう。




◆諏訪町会国旗掲揚




前回のオリンピック記念と書いてあるね。





この階段をのぼったところにある。




庚申塔

現地に行くと、庚申塔もあったが、「源兵衛地蔵」の説明板があった。



源兵衛地蔵尊縁起

 この地蔵尊がお立ちになっている付近は、元禄の末ごろに源兵衛という人が来て、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開墾しましたところ同心の人々が集まって来て28戸から成る新しい村が出来ましたから源兵衛村と云う名が付けられたと言い伝えられています。
 その後、2・30年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために村民の有志者が講中を結集して享保十一年(1726)にこの地蔵尊を安置いたしました。
 源兵衛村、戸塚町、西早稲田と地名は変わりましたが、地蔵尊のお慈悲心は少しも変わることなく、信ずる人々の抜苦、子育、商売繁盛、交通安全などの所願をすべて成就くださいます。





馬頭観音庚申塔




彰忠碑

伊予の青石で作られた日露戦争の凱旋記念碑。
表の字は当時の元帥陸軍大将・奥保鞏の書とのこと。





茶屋町通り





江戸時代、この付近には旗本の馬術練習場があり、見物客が多かったことから、地元の農家が茶屋を開いた。





◆将棋の小さな博物館

google mapの位置はこの写真のあたり・・・・。
ほんとにそんな博物館があるんだろうか?
WEBで調べてもわからなかった。
ご存知の方教えてください。






◆亮朝院(りょうちょういん)



<亮朝院本堂>
亮朝院の本堂は、木造、正面五間、側面五間、寄棟造り、本
瓦葺きの建物で、嘉永三年(1850)に建築された。屋根などを中心に後代の改修や改変が多く見られるものの、全体として当初の状態がよく維持されている。
 内部は建具を入れれば細かく仕切ることができ、修行僧が籠る場として使用されたものと推定され、修行道場としての本堂という性格も持っている。平成六年(1994)から八年(1996)にかけて耐震補強等を目的とした改修工事が行われた。
 区内では希少な江戸時代の寺院建築で、江戸時代後期に発行された『江戸名所図会』の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院境内の様子を知ることができる建造物として貴重である。


<亮朝院文書>
 如意山亮朝院に伝来する古文書類で、亮朝院の開基である能勢の局の書状など年代不明のものを除くと、寛永二年(1625)の日閑筆「疫神遠離秘法」を最古とし、昭和十五年の「福寿海無量」まで約400件に及ぶ区内最大規模の寺院文書である。
内容は、江戸後期から明治時代のものが多く、亮朝院の由緒や経営、建物や境内の普請工事などに関するものが中心である。
亮朝院は、江戸前期に徳川家の庇護のもと、その祈祷所として成立したが、明治以後は一般檀徒の寺となった。文書からは、このような寺の歴史的変遷を知ることができる。戸塚地区に残る数少ない古文書として貴重である。



<梵鐘>
 江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄十五年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり、市谷田町講・関口講などの講中のほか、506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。






◆亮朝院七面堂


亮朝院の金剛力士石像

 宝永二年(1705)三月二十九日に奉納された石造の金剛力士像で、境内の七面堂前に阿吽一対で安置されている。
 総高234センチ、像の背面には奉納年月日と造立施主(ぞうりゅうせしゅ)として「尾州住大工加右衛門(びしゅうじゅうだいくかえもん)日穝台(にっきょうだい)」の名が刻まれている。尾張国の大工加右衛門は嘉右衛門とも書き、亮朝院の堂塔についても寄進したとする記録がある。日穝は亮朝院の第五代住職である。
 金剛力士像は一般に「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。大半が木造であり、このような石造のものは珍しく、区内では唯一のものである。西大久保や柏木で暮した詩人・歌人・随筆家の大町桂月(おおまちけいげつ)は、「東京遊行記(ゆぎょうき)」(明治三十九年)の中で、この像のことを記している。





<木造七面明神半跏像(はんかぞう)及び宮殿>
 亮朝院七面堂の本尊木造七面明神半跏像と像を納める宮殿である。七面明神像は、木造、寄木造、像高は38センチである。正保四年(1647)に身延山久遠寺から遷されたものと伝えられる。宮殿は木造、正面一間、側面一間、入母屋造りで、規模も大きく、建造物として優れている。ともに江戸時代前期から中期ごろに制作されたと推定される。


<木造妙見菩薩立像及び宮殿>
 木造妙見菩薩立像と像を納める宮殿である。妙見菩薩像は、木造、寄木造り、像高は27.8センチで、北斗七星を配した光背は上半分が欠損している。宮殿は木造、正面一間、側面一間、入母屋造である。像は日本橋界隈から遷されたと伝えられており、宮殿の基礎には日本橋周辺の人物を含む61名が記されている。像に伴うと考えられる扁額には嘉永五年(1852)の年紀があり、この頃に制作されたものと推定される。


<木造諏訪大明神座像及び宮殿>
 諏訪大明神坐像と像を納める宮殿である。諏訪大明神は木造、寄木造り、像高は33センチである。元は境内にあった諏訪神社に安置されていたものである。宮殿は木造、正面一間、側面一間、入母屋造である。像に伴うと考えられる扁額には文政十一年(1828)の年紀があることから、この頃に制作されたものと推定される。



花塚

花の供養塔なんだろうけど、初めてみた!







続く。