やはり丸の内線に沿って北上する。
急な階段坂が多く、息が上がる(w
◆七丁目坂
google mapに載っていたので来てみたが、坂の説明板は無かった。
WEBで調べると「旧音羽七丁目と八丁目の間から上る坂で、七丁目坂と名づけられた。」とあった。
◆佐藤春夫旧居跡
佐藤春夫(1892〜1964)は詩人、小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。井伏鱒二や太宰治など多くの門弟が出入りした。昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。
春夫は、明治43年上京。団子坂の森鷗外の観潮楼向かいに下宿して、慶応義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹、永井荷風らに師事し、詩、小説に数多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「殉情詩集」(大正10年)、「田園の憂鬱」(大正8年)、「晶子曼蛇羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員。昭和35年、文化勲章受賞。
上京以来、2度ほど区外に出たほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。
京都府知恩院が本墓であるが、伝通院にも分骨され、夫人とともに眠る。
もと、関口村の畑地。天和2年(1682)町屋を開き、享保5年(1720)から町方支配となった。
町名は、関口村の高台(目白台地)にあったからといわれる。関口の名称は、昔この辺りに奥州街道の関所があったから、また神田上水の大洗堰(おおあらいぜき)があったからともいわれる。
芭蕉庵や水神社一帯は椿山と言われた。
この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。
正保(1644〜48)のころまで関口村と言っていた。
土地の人の伝えに、昔この辺りに奥州街道の関所があったので村名にしたという。
また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。神田上水は、天正18年(1590)ころの開設と伝えられるので、それ以降に関口村の名称が起ったのではないかと言われる。
天和(1681〜84)以後、町屋が開かれ、享保5年(1720)ころには町並地となり、武家屋敷もおかれた。
明治5年、目白台の旧武家屋敷地、付近の寺地を合併して関口町となった。
待ちが開かれつにつれて飛地ができ、数ヶ町に分かれた。
◆蓮光寺
続く。