24時間勤務アケで江戸川橋から椿山荘経由で護国寺まで散歩。
江戸川(神田川)沿いに西に進んで椿山荘周辺を目指す。
◆関口水道町
上記、江戸川橋駅手前にちょっと写っている旧町名板。
むかし、関口村の内であった。鷹匠細川加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(1673〜81)以前から村方町屋となった。
貞享2年(1685)町屋が許され、町奉行・代官両支配となった。そして、武藏国豊島郡関口水道町となる。
明治5年、造兵司(江戸末からの大砲製造所ー明治2年政府の東京関口製造所と改称、同3年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前身)や武家屋敷地その他を併せた。
明治11年、小石川区に編入した。
江戸時代に本番所があり、大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸(さしふたあげおろし)の役を務めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。
◆江戸川橋
◆江戸川橋公園
目白台・関口 の歴史
大井玄洞 の胸像
かつて江戸川 と呼ばれていた神田川 は、たびたび洪水をおこし、沿岸の人々にとって治水事業は、永年の願いでした。
明治四十三年(1910)の大洪水の後、大井玄洞(1855〜1930)は人々の願いをかなえるため、治水に尽力しました。
大正二年(1913)に護岸工事着手し、大正八年(1919)に完成させています。
人々は、この治水事業の功績を称え、昭和三年(1928) 神田川沿いの江戸川公園 の当所に玄洞の胸像を建てました。
神田上水
日本最古の神田上水(神田川)は、徳川家康 の命により大久保藤五郎によって開かれました。井の頭池 を水源とし、下流の大滝橋あたりに大洗堰 を築き、水位を上げて上水を水戸 屋敷に入れ、樋で地下を神田 や日本橋 方面に流しました。
園内の左手を進むと、石組みの池を見ることができます。その石組には、大洗堰 の石柱を使用しています。更に、先を進むと「関口芭蕉庵」や「水神社」に出会うことができます。
「関口芭蕉庵」は、神田上水 の改修工事に携わった松尾芭蕉 が「龍隠庵」と呼ばれる水番屋に住んだといわれ、これがいつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれることになったそうです。
「水神社」は、いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったといわれています。
江戸川 の桜
下の絵は、明治三十九年頃の江戸川橋 下流にある「中之橋」付近の景色を描いたものです。
見事な夜桜と船から花見を楽しむ様子が描かれ、かつての名所・盛り場としての姿を伝えています。
残念ながら大正末期頃の護岸改修により、この景色は失われましたが、当時の面影を惜しみ、現在の江戸川公園 沿いに桜を植樹し、新たな桜の名所としました。
西方清戸(清瀬市内)から練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
目白台の空を真北にわたる雁
稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)
続く。