まだまだ江戸川(神田川)沿いに西へ進む。
途中水道の緊急工事が入っていて、写真が撮れなかったりしたので行ったり来たりする。
なので順番がバラバラ(w
◆正八幡神社
古くは、関口村の畑地であった。宝永元年(1704)町屋を設け、元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。
町名の由来は明らかではないが、「若葉梢(わかばのこずえ)」に次の記事がある。
駒止(こまどめ)橋(現、駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬を多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(こまだな)(馬を売る)があった。
駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。
明治4年、新長谷寺(はせでら)門前、大泉寺(だいせんじ)門前および武家地を合併した。
目白坂上に新長谷寺(目白不動)があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災に会い廃寺となった。
祭神は、猿田彦命・稲荷大神である。道山幸神社また駒塚神社とも称した。
創建年代は不祥。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像は、その昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で、神体全体に蛎殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚があり、そこに猿田彦命を安置したという。
幸神社が面する道路は、かつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。未知の神である猿田彦命を祀った当社は、清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人々の安全を祈った祠であった。
◆神田上水取水口大洗堰跡
徳川家康 の江戸 入り(天正18年-1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池 の流れを落合 であわせ、関口 で取水して水路を定めたのが神田上水である。
大洗堰 で水は二分され、余水は江戸川 に落し、他は上水として水戸 殿に給水し、神田橋 門外付近でニ筋に分かれた。一つは、内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋 で北の町屋 に給水した。
大正末年には、水質・水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
上水道として最も古い神田上水 の、取水口である大洗堰 の跡は、永く歴史に残したいものである。
続く。