2018/08/21 江戸川橋散歩 05 高田第二公園/豊川稲荷/東京音楽大学目白台グラウンド/豊坂/高田豊川町/豊川浴泉/豊川稲荷

急にしんどくなってきたので高田第二公園で休む。
その後は護国寺のある東へ進む予定だったが、もう少し西側に巡ってない場所があったので、もうちょっとだけ西へ進むことになる。



◆高田第二公園

15分ほど休んで出発。
気持ちの良い公園だった♪




豊川稲荷神社









東京音楽大学目白台グラウンド

2018/08/19
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180819/1534768280
この時にみた校舎からはちょっと離れているね・・・。
ここまで来るのも運動ってことかな?




◆豊坂




 坂の名は、坂下に 豊川稲荷社があるところから名づけられた。
 江戸期この一帯は、大岡主膳守の下屋敷で、明治になって開発された坂である。
 坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川井之頭池に源を発し、途中、善福寺川妙正寺川を併せて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。





◆高田豊川町

上記「豊坂」の写真、豊栄の説明板脇に建っている。



 もと、小石川村の内である。延享年間(1744〜48)以前に町屋を開き、小石川四ッ家町(伝通院領)といった。
 明治2年、町内のとこ変わ稲荷神社の豊川と、付近一帯を下高田と呼んでいたので、町名を高田豊川町とした。
 同5年、旧大岡主膳正(しゅぜんしょう)、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷および武家地を併せた。
 同34年、もと小石川村飛地字豊川、高田村字神明下を合わせた。
 明治34年日本女子大学校(日本女子大学)が、目白台2丁目に、成瀬仁蔵によって創立された、成瀬記念講堂は、コンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。



◆豊川浴泉





豊川稲荷神社

google mapにはただ「神社」としか記されていなかった。
のぼりを見ると「豊川稲荷」って書いてある。





続く。