2018/08/21 江戸川橋散歩 06 中ノ橋/山吹の里の碑/面影橋/高田氷川神社/南蔵院/高田公園/稲荷坂

護国寺を目指すはずがさらに西の新宿方面に来てしまった(w
この辺りからは北東方向にある護国寺をまじめに目指す。
だって暑いんだもの・・・・・・。



◆中ノ橋

下は神田川








◆山吹の里の碑



 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に簑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七飯八重 花は咲けども 山吹の みの(簑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の一八世紀前半には成立していたようです。
 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三年(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三年(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。




2018/07/30
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180730/1533230334
この日記にも「山吹の里」に関連するものが・・・。
というか、確かにここはその近所。




面影橋





都電荒川線と一緒に撮ろうと思ったけど、暑くてやめた(w




◆高田氷川神社

中は撮影禁止だったので、外から撮ったこれだけペタっ♪




南蔵院





南蔵院
 真言宗豊山派に属し、大鏡薬師寺南蔵院という。寺伝では、開山は室町時代の円成比丘(永和二年1376年寂)とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化のとき、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。
 正徳六年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。また、江戸時代の地誌にも紹介されており、「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
 現在の境内には、元禄九年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔六地蔵彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には、相撲年寄である片男波粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。



江戸時代の高田村
 天保五年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が、長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。
 「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師堂と鶯宿梅が描かれている。
 鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが、「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。
 南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残りをとどめている。





高田公園




稲荷坂

google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは何もなかった。
WEBで調べてみてもここが稲荷坂であっているかどうかもわからなかった・・・・。
階段以外の坂でこんなに急な坂は滅多にないね。



続く。