下の目白通りには「清戸坂」と名づけられていたが、あんまり坂っぽくない(w
◆清戸坂
目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(元清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。
この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。
坂道の北側に、雑司谷清土村があったので、清戸坂とも呼ばれた。
ものすごい読みづらい・・・・。
この他にも文京区が建てた説明板もあるみたいだ。
窪田空穂 明治10年(1877)〜昭和42年(1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年(1941)、日本芸術院会員。昭和33年(1958)、文化功労者。
明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年(1967)4月12日ここで没した。享年89歳。
明治時代後期から昭和戦前にかけて建設された和洋折衷住宅である。主屋・西洋館・表門(ともに1911年竣工)・石蔵(1920年竣工)・離れ(1933年竣工)の5棟と石塀(1930年竣工)2基から構成される。
これらの施主は西洋史学者の村川堅固(1875〜1946)で、長男で同じく西洋史学者の堅太郎(1907〜1991)が継承した。主屋・西洋館・表門は当時小石川区白山御殿町(現・白山3丁目)で建築請負業を営んでいた片山清太郎が施工した。 住宅の造りは和風住宅の脇に小規模の西洋館を配置した形式をとり、近代化された中規模住宅の典型例といえる。主屋は明治末期から大正期にかけてわが国の住宅に急速に普及した「中廊下形住宅様式」(建物の中央に中廊下が東西に貫通し、南側に和室、北側に台所・浴室などを配置)の現存するもっとも古いもののひとつである。文京区のみならず、わが国の住宅史上非常に貴重な文化財である。
江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学附属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869〜1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877〜1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根 (久保田空穂)
◆旧雑司ヶ谷町
享保3年(1746)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
昔、小日向の金剛寺(または法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また。建武のころ(1334〜36)南朝の雑士(ぞうし)(雑事をつかさどる)柳下若狭、長嶋内匠(たくみ)などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩りのとき雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。
◆菊池寛旧宅跡
住所は豊島区なんだね!
菊池寛 は、明治二一年(1888)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年(1913)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
寛は大正一二年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和ニ三年三月六日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。
続く。