この日記のエリア後半の坂は、説明板がなくちょっと曖昧になってしまったかもしれない。
間違いがあったらご指摘ください。
(o*。_。)oペコッ
この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。
江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。
昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造りとなった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和9年千川は暗渠 になり道路の下を通るようになった。
石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。
ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在通りには大正11年(1992)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊っているという話があった。ある時、若い僧が食事に招かれての帰り、夕暮れの時、すすきの茂る中を白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
◆旧鈴木貫太郎亭
google mapにあったので来てみたが、説明板らしきものは見当たらなかった。
鈴木貫太郎は「第42代内閣総理大臣」
場所はここで合ってるのかどうかわからなかった。
もと、小石川村の内であった。宝永7年(1710)町屋を開いた。
これより先、火の番役の武士が多くいたので、小石川火の番町といった。
明治2年、武家地を多く合併して小石川丸山町とした。名称の由来は、はっきりしない。
◆砂利場坂
google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
◆宮坂
google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
◆さいとう坂
google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。
続く。