2018/09/05 駒込散歩 02 駒込橋/駒込妙義坂子育地蔵尊/羽黒山湯野上神社末社/しもふり商店街/女子栄養大学/庚申塔(妙義神社)/旧丹羽家住宅蔵

まだ駒込駅周辺エリア。
駅の北側を少し散策後、西へ移動を始める。



駒込

駅のすぐ北側に、欄干だけ展示されていた。
おそらく昔の駒込橋の一部なんだと思うが、
情報が全くないのでわからない。



駒込妙義坂子育地蔵尊




 この地蔵尊は、日光御成道本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。
 「寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石像丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」
 これによれば、寛文八年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
 戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、24日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和二十年(1945)四月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
 地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。これは昭和八年(1934)にこの近くで交通事故にあって亡くなった11歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
 平成十八年(2006)四月、駒込駅前通り商店街振興組合創立50周年および駒込2丁目親和会戦後60周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行われました。





羽黒山湯野上神社末社 住吉神社東京事務所




◆しもふり商店街

正式には「霜降銀座商店街」とのこと。
商店街の道路の下は暗渠化された谷田川が流れているとのこと。




女子栄養大学




庚申塔







 「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。
 昭和四十年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発掘され社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に移された。
 尚寛文二年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。



妙義神社



 当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊神功皇后応神天皇である。文政十一年(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
 くだって文明三年(1471)五月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
 続いて道灌は、文明九年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521-27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573-91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
 境内には、寛永十九年(1642)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。




◆旧丹羽家住宅蔵




 この蔵は、丹羽家に残されていた記録から、昭和十一年(1936)の建築であることがわかっています。もとは主家の北側に木造2階建ての蔵が建っていましたが、八代目茂右衛門が、九代目の結婚の際に主屋の増改築とあわせて、鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直しました。
 蔵は出入口を東面に設け、増築した六畳間と廊下で主屋とつながっていました。出入口の観音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)が付いています。また扉上部と両脇の柱に大理石が貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。
 外壁は、昭和初期の土蔵や店舗などに多く用いられた工法である、モルタル下地に大理石の砕石粒洗出し仕上げになっています。また外壁の腰巻、水切り、雨押え、鉢巻などの細部や、窓の庇の銅板葺きなどに職人の丁寧な仕事ぶりがうかがえます。
 蔵の内部は、地価に収納庫を設け、床板には槍板を用い、壁はモルタル下地に漆喰塗りで仕上げています。特に1階の天井や梁(はり)化粧面取りなどに投じの左官技術がよく表われており、意匠的にも優れています。
 このように、旧丹羽家蔵は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造でありながらも、細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。建築後70年以上が経過していますが、昭和初期の建築当時の姿を残しています。
 これらの点が評価され、平成二十年(2008)三月七日に国の登録有形文化財建造物になりました。




続く。