2018/09/11 王子散歩 06 北区防災センター/滝野川体育館/農業技術研究発祥の地/平塚神社/上中里不動尊/蝉坂

この日記のエリアも上中里駅すぐ間近。
駅の南側になる。



◆北区防災センター(滝野川公園脇)



滝野川体育館(滝野川公園脇)




◆農業技術研究発祥の地




 明治二十六年四月 農商務省農事試験場が この地 東京府北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原に創設され 我が国の農業技術研究は発祥した
 爾来八十七年 その間 昭和二十五年四月 農業技術研究所 と改称される等 組織機構の 変遷はあったが「西ヶ原」は常に近代農業関係試験研究機関の母体として 多くの輝かしい業績により 農業の発展に寄与してきた
 昭和五十五年一月 国立試験研究期間の筑波研究学園都市への移転に伴い この地での研究を終わる
 「西ヶ原」の栄光の不滅を祈念し ここに記念碑を刻む




◆平塚神社

本殿の裏側に甲冑塚・鎧塚があるが、説明は下の「平塚城伝承地」で。
今回植栽作業中で裏に回ることができなかった。




石室神社(石神明神)


御科稲荷神社/大門先・元稲荷神社


菅原神社(平塚大神社)


楽殿


平塚城伝承地

 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙(ぐんか)のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。


鳥居



蝉坂からの階段



上中里不動尊





◆蝉坂



 六阿弥陀道(ろくあみだみち)の途上でもある蝉坂(せみざか)という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』上中里村の項に「平塚明神ノ傍(かたわら)ニアリ、登り三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約54メートルから72メートル余を登る坂道だとあります。
 坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。
 明治時代初期の『東京府志料』では「或云(あるいはいう)攻坂(せめざか)ノ轉訛(てんか)ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿(ほうふつ)とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和18年7月、昔の坂を拡幅して出来た道です。


続く。