前の日記のエリアから、このあたりは鉄道の街だね。
鉄道関連の施設が沢山!!
◆鉄道神社
東田端鉄道八景 与美夕照(よみせきしょう)
夕方、尾久操車場から上野に向かう「北斗星」が与美踏切に通過します。
この情景をイメージして「与美夕照」と命名しました。
田端ふれあい橋へ会談で上る手前にあった。
なんのための石碑なのかよくわからなかった。
定礎かな??
橋の由来
旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。
当時、この橋は現場継手部も溶接 した文字どおりの全溶接橋 として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
施工年月日 昭和十年十二月二十七日
形式 突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
橋長 一三五.〇メートル
橋梁巾 一三.八〇メートル
道路幅員 一一.〇〇メートル(当時)
総鋼重量 約五九一トン(当時)
残存の経緯
旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
オブジェが何点かおいてあった。
そのうち二つだけ写真を撮ってきた。
動輪
東北新幹線200系で使用されていた車輪
40kレールとポイントリバー
東北線で使用されていたレールと列車の運転方向を切り替える装置
田端文士芸術家村
かつて田端は、一面の畑地、谷田川の清流、藤屋筑波の眺望に囲まれたのどかな村でした。この台地に陶芸家の板谷波山や鋳金家の香取英眞、画家の小杉放庵らがカマを築き、アトリエを建てたのは、明治の後期のことです。
大正に入ると、芥川龍之介、室生犀星、や菊池寛など数多くの文士たちがこの地に居を構え、それぞれの専門領域を超えた密接な人間関係を結んで、類のない文化圏をつくりあげました。田端は、日本の、「モンマルトル」「文士芸術家村」などと呼ばれて、大正期の日本文化をリードしたロマンの香り高い郷として語り継がれています。
◆田端駅
ゴールのJR山手線・京浜東北線田端駅。
後半になるほどキツイ坂が多くなり、体力がかなり奪われた。
こんなに起伏の激しい場所だと思わず、立体地図が欲しいと思った(w
最後、田端ふれあい橋で売っていた5個で300円の梨を買って帰ればとちょっと後悔してるのでありました・・・。