2018/09/13 田端散歩 02 田端三丁目まちかど広場/田端日枝神社/ポプラ坂/八幡坂/上田端八幡神社/大龍寺/室生犀星旧居跡

山手線沿いに田端駅の方へ進む。
ポプラ坂は一度来た記憶があるんだが、いつ来たのか思い出せない・・・。



◆田端三丁目まちかど広場

広場!?




◆田端日枝神社



境内社



石段



鳥居



参道




◆ポプラ坂




 田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1ヵ月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。




◆八幡坂





 坂の名は、坂下にある八幡神社に由来します。坂下の上田端児童遊園のところにあった紅葉館に小説家の堀辰雄が下宿していたほか、この坂の近くには、小説家の菊池寛、詩人の室生犀星、画家の倉田白羊、彫刻家である吉田三郎や池田勇八が住んでいました。芥川龍之介は、その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家」と書いています。




◆上田端八幡神社






村の鎮守の八幡神社

現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の住民の鎮守で大龍寺が別当寺と勤め、もう一つの八幡神社は東覚寺が別当となっていました。
祭神は品陀別命で、境内には稲荷神社・大山祗神社および白髭神社がまつられています。このうち白髭神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その付近の畑の中には、争いの杉と呼ばれる神木がありました。木の高さは二丈五尺余、幹の太さは九尺位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。
そこで奥州平泉の高館に源義経を討伐に向かう途中の畠山茂忠が、これを見て家来と松の木か杉の木かと争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。またこの杉の木は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。
このように境内の白髭神社は、鎌倉から室町時代の貴重な伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考えるうえで重要な資料といえます。



白髭神社





稲荷神社




大山祗神



鳥居


鳥居





◆大龍寺




この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって、湯島霊雲寺の観鏡光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。
この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。






室生犀星旧居跡




 室生犀星(詩人・小説家 明治二十二年〜昭和三十七年)は、大正五年七月田端163(現・3−4)番地転入をはじめとし、その後田端内を数回転居しました。なかでもここ田端523(現・5−5)番地は、居住期間が最も長く、特に気に入っていた場所のひとつです。
 犀星の文学への開眼は俳句にあります。魚眠洞という俳号を持ち、生涯において4冊の句集を含む約1750の句作を行いました。田端時代は作家・芥川龍之介等と句作に打ち込むと同時に、詩人として、また小説家として出発した時期でもありました。



ぎぼし 田端草庵
ぎぼし咲くや 石ふみ外す 葉のしげり


龍之介忌
すゝけむる 田端にひらふ 螢かな


ある扇に書きて
魚眠洞 枯蘆たばね 焚きにけり





続く。