2018/10/23 本駒込散歩 04 駒込大観音/旧駒込蓬莱町/庚申待百万遍講中庚申塔/光源寺/花陽稲荷/清林寺/栄松院

まだまだ西へ進む。
学生が多いと思っていたら駒込中学校・高等学校の下校の時間にあたったみたいだ。



駒込大観音











◆旧駒込蓬莱町

 元文年間(1736〜41)町屋が開かれた。町内向側に寺院4か寺(瑞泰寺(ずいたいじ)・栄松寺(えいしょうじ)・清林寺(せいりんじ)・光源寺(こうげんじ)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺(ちょうげんじ)・浄心寺(じょうしんじ)の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。
 明治5年、浅嘉町(あさかまち)の一部と、高林寺(こうりんじ)門前、浩妙寺(こうみょうじ)、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。
 町名は、中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。
 明治13年駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。
 町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した”お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。





◆庚申待百万遍講中庚申塔



 青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。
 塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。
 本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。





◆光源寺


明珍本家墓

平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141〜1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。
光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789〜1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。





◆花陽稲荷神社






◆清林寺




◆栄松院






薩摩浄雲の墓/初代 松本幸四郎の墓

薩摩浄雲の墓>
 文禄4年(1595)-寛文12年(1672)。江戸初期の浄瑠璃太夫。上方の出身。通称虎屋次郎右衛門。別に江戸次郎右衛門、薩摩太夫といった。晩年に剃髪して浄雲と号した。
 浄瑠璃を修め、寛永初年の頃江戸に来て「江戸薩摩」をおこす。当時、江戸随一の人形遣い小平太を擁し、操りの妙と人形衣装の華美と舞台装置の良さで好評をはくした。


松本幸四郎の墓>
 延宝2年(1674)-享保15年(1730)。江戸中期の歌舞伎俳優。下総国の生まれ。
屋号は初代のみ大和屋。はじめは久松小四郎といって女形を勤める。のち本姓の松本に戻り立役となり幸四郎と改名した。
 二代目市川団十郎と並ぶ名優のひとりと評された。






続く。