2018/10/27 品川散歩 03 承教寺/二本榎出張所/高輪/二本榎の由来/高輪警察署/高野山東京別院/光福寺

このエリアは品川方面に向かって南下。
お寺がものすごく多い。



◆承教寺


英一蝶(はなぶさいっちょう墓



 江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信香、潮湖のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(1652)大坂に生まれ、15歳(一説に8歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
 元禄十一年(1698)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。
軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保二年(1717)には風俗画廃業を宣言している。同九年一月十三日、73歳で没した。



11/4の日経新聞にちょうど記事が載っていた!




大檀林跡

なんのことだかよくわからず、現地にこの石碑以外の説明がなかったのでWEBで調べてみた。
「お寺の格が高い」ということでいいとおもう。


「新纂浄土宗大辞典」
近代浄土宗制における寺格の一つ。大正一一年(一九二二)制定の檀林条規によると、檀林を大檀林と檀林の二種に区分している。大檀林は江戸時代の檀林と異なり、宗門高格の寺院で、地方教化の中枢となり、祖風宣揚の道場から選出している。大檀林の住職は一宗の公選とし、選挙は大本山住職選挙規定を準用している。この結果、同年一〇月一日から福岡県久留米善導寺と神奈川県鎌倉光明寺が大檀林に指定された。両寺は現在大本山となっている。



鐘楼



山門1



山門2

こちらの狛犬(?)がちょっと変わっている。






何の動物かな?
犬ではないだろうと思う。


二本榎の碑

<二本榎の碑について>
 その昔、江戸時代に東海道日本橋からきて品川宿 の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪 何丁目などと地名が変りましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院 の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております





◆二本榎出張所

高輪消防署「二本榎出張所」
こちらの建物も文化財ウィークに公開される文化財である。
この日は公開日ではなかった。
3年前に中を見学したことがある。
2015/11/01
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20151101/1446976313





◆高輪


港区旧町名由来板「高輪」

 現在の田町駅周辺から二本榎に続く古道、奥州路の道沿いに広がる地域をいいます。この地は東京湾に面した高台で、江戸の町を一望できたといわれています。地名の由来は諸説ありますが、高台の縄手道であるところから「高き縄手」の略で、後に高輪と書き改めたといわれています。この道は、江戸開府にともない東海道が整備されるまでは、旅人の往還としての役割を担っていました。東は海、西は寺院や町屋の見られる古くからの片側町でした。

<芝高輪西大町>
 海際の高台にある高輪台町の西方にあたることから明治5年(1872)にこの名がつきました。江戸時代、旧熊本藩細川越中守の中屋敷で、元禄16年(1703)赤穂浪士大石良雄ら17名がここで切腹しました。明治時代には、皇室の御料地となり、後に東宮御所となる高輪御殿が建てられました。昭和2年(1927)高松宮邸となり、戦後一部を残して一般住宅・高松中学校・高輪地区総合支所となっています。

<芝高輪大町>
 下高輪の高台にあるところから、明治2年(1869)台町と町名がつけられました。付近は細川家屋敷の前なので、細川前とも俗称されていました。寺院が多くあり、明治34年(1901)京都の西本願寺から模範仏教中学校(高輪学園の前身)が移って来て、仏教色一色となりましたが、その後寺院が他所に移り住宅街に変わっていきました。

<芝白金丹波町>
 このあたりはうっそうと木の生い茂った谷間で、樹木谷(通称地獄谷)の一部でした。町名はなく、松平丹波守の邸地前面の道を通称丹波横町と呼んでいました。白金丹波町と名づけられたのは明治5年(1872)のことで、この丹波横町が由来とされています。その後も急には市街地にならず、戦災を受けることもなかったため今日も寺院の大一となっています。

<芝二本榎一丁目・二丁目>
 このあたりにあった上行寺の門前に使があり、榎の大木が2本ありました。その後、榎は火災で焼けてしまいましたが、今もこのあたりの地名として残っています。
 一丁目の町域では、明治2年(1869)江戸時代から市街地として発達していた門前町屋と承教寺、仏岳院、黄梅院の各門前を合併して永場二本榎一丁目となりました。
 二丁目の町域では、江戸時代から高輪小台町、覚真寺門前、朗惺寺門前などが市街地となっていました。明治2年(1869)これらの諸町と上行寺門前を合併して芝二本榎二丁目となりました。

<芝二本榎本町>
 町名になった二本の榎があったところで、この榎は旅人の目標になっていた一里塚とも伝えられています。かつて上行寺門前・円真寺がありましたが、明治2年(1869)町屋の部分は二本榎一丁目となり、明治5年二つの寺地が加わりました。2年後、一部が独立して芝二本榎本町となりました。

<芝二本榎西町>
 明治5年(1872)武家地を合併した際、芝二本榎二丁目の西にあったところから町名となりました。



◆二本榎の由来

港区旧町名由来板「高輪」のすぐ脇にあった。



 その昔、江戸時代に東海道日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎木が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎 を「二本榎(にほんえのき)」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく新植・移植が行われ、町の大切な象徴になっております。




◆高輪警察署




高野山東京別



不動堂



境内社




鐘楼



山門






◆光福寺



子安栄地蔵

<幽霊地蔵>といわれた。

江戸時代、光福寺に近くの二本榎通りの飴屋さんに毎晩赤ん坊を連れた若い女性が買い物に来ていた。
雨でも傘も持たずにやって来るその姿を不思議に思った飴屋の主人が女性の後をそっと尾行。
寺の中に入っていったことを確認した主人は後日、今度は寺の住職と共に女性の後をついていった。
すると女性の姿は消え、地蔵の前に辿り着いた。
住職はその地蔵を毎日供養すると、それからパッタリと女性が現れなくなった。


怖いけど、お金はどうしてたんだろう?
お賽銭かな?(汗



開運稲荷大明神








続く。