2018/10/30 駒込散歩 05 旧駒込吉祥寺町/吉祥寺/旧駒込片町/南谷寺/養昌寺/洞泉寺

まわる順番を間違えて本郷通りを北に南に(w
坂がないので歩きやすいね。



◆旧駒込吉祥寺町




 むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。
 明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が映ってきた。そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享2年(1745)から町奉行支配となった。
 明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。
 江戸時代、吉祥寺には栴檀琳(せんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1000人余の学僧がいた(現在の駒澤大学に発展)。二宮尊徳榎本武揚(たけあき)、鳥居燿蔵(ようぞう)、川上眉山や(びざん)らの墓がある。





◆吉祥寺




 長禄2年(1458)太田道灌江戸城 築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
 僧侶の養成機関として栴檀林(せんだんりん)(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
古い堂塔
 山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
 経蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財
墓所
 二宮尊徳(江戸末期の農政家)         (墓地内左手)
 鳥居耀蔵(江戸南町奉行)           (墓地内左手)
 榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家) (墓地内右手)
 川上眉山(小説家)              (墓地内右手)



縁結び吉祥観音







茗荷稲荷





鐘楼




経蔵




 江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所、栴檀林(せんだんりん)として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)ふるいきまりによって再建したものと考えられる。
 旧経蔵は、1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失と伝えられる。1933年(昭和8)に大修復を行った。
 屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠(ろばんほうじゅ)をのせた「二重宝形(ほうぎょう)造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。
 蔵内に、経典を収蔵する八角形の輪転蔵(てんりんぞう)がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。



小出浩平先生顕彰歌碑

「こいのぼり」





河村光陽先生記念碑

「かもめの水兵さん」



大仏




二宮尊徳の「墓碑」



 天明七年(1787)〜安政三年(1856)。相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。
 人物を認められて小田原藩下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。
 その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中病死する。彼の思想・行動派後に「報復社運動」として展開するようになった。




川上眉山の墓



 明治二年〜明治四十一年(1869〜1908)。
大阪の生まれ。名は亮あきら。小説家。
東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。
また「文学界」同人とも交わる。
明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。



山門



吉祥寺通用門



通用門の後ろの隅にお地蔵様がいらっしゃった。






◆旧駒込片町



 むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(りんしょういん)(春日局菩提寺)領の農地となった。
 元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側町であったので駒込片町と称した。
 明治5年までに、駒込浅嘉町の一部と、南谷寺(なんごくじ)や養昌寺(ようしょうじ)などの寺地を合併した。
 同24年、元下駒込村の内神明原(しんめいばら)の内を併せた。
 南谷寺目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624〜44)三代将軍徳川義光が鷹狩りの途中立寄り、目黒・目白に対して目赤不動命名し、寺を現在地に移した。養昌寺(ようしょうじ)に、樋口一葉の思慕(しぼ)の人平井桃水(ひらいとうすい)の墓がある。



南谷寺



目赤不動尊




 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615〜24)万行(まんぎょう)和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授 けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
 寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代 将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。 剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊五色不動として、その名が知られている。
目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。



江戸五色不動





◆養昌寺



半井桃水(なかいとうすい)の墓



 万延元年〜昭和元年(1860〜1926)。対馬に生まれ、名は洌(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥(きくあみ)。
 共立学舎に学び、明治21年東京新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。
 桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。
 墓は、墓地を入った突き当たりにある。






◆洞泉寺


源氏墓所

近くに「文化財ウィーク」ののぼりが立っていた。
この期間じゃないと見られないのかどうかはわからない。




 「先哲叢談(せんてつそうだん)」を著した原念斎をはじめ、江戸時代中・後期の著名な儒学者を出した原一族四代の墓所で、当時のまま現存しており、墓域は円頂角柱形墓石十基からなる。
 雙桂(そうけい)(1718年〜1764年)は、肥前唐津藩(後に下総古河に転封)の儒医であったが、五十歳で致仕し江戸で病死した。著書に「桂館漫筆(けいかんまんぴつ)」「過庭紀談(かていきだん)」などがある。
 敬仲(けいちゅう)(1748年〜1793年)は、雙桂の次男で古河藩儒となったが、のち江戸に出て幕府に仕え、寛政五年四十六歳で死去した。
 念斎(ねんさい)(1774年〜1820年)は、敬仲の子で折衷学派の山本北山に学んだ。文化十三年(1816)に著した「先哲叢談」は、儒学者の言行・逸話・詩などを資料として記述した歴史書で、近世儒学史の名著として知られている。著書はほかに「史氏備考」「念祖斎遺稿」などがある。文政三年三月十九日病死した。享年四十七歳。墓碑銘は佐藤一斎(坦(たいら))の書いたものである
 徳斎(とくさい)は、志賀理斎の子で京都に生まれ、念斎の養子となり北根岸村に住んだ。啓蒙的著作に「先哲像伝」がある。生没年不明。




続く。