2019/02/08 上野散歩 04 宗賢寺/東渕寺/大正寺/正慶寺/神社/妙顕寺/弥生式土器の発見地(弥生坂)

上野公園北側からさらに北側を今度は東に向かって歩く。


◆宗賢寺









◆東渕寺

デザインが・・・・・。




◆大正寺



川路聖謨(かわじとしあきら)墓

 享和元年(1801)四月二十五日、豊後国日田(現、大分県日田市)領代官の部下、内藤吉兵衛の子として生まれ、幕臣川路光房の養子となる。幼名は弥吉または万福。通称を三左衛門・左衛門尉と言い、敬斎と号す。文政元年(1818)支配勘定出役に就任し、評定所留役寺社奉行調役・勘定吟味役などを歴任。ついで佐渡・奈良・大阪町奉行などを経て、嘉永五年(1852)勘定奉行兼海防掛に任じられた。
 翌嘉永六年、米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、江戸湾品川沖に台場を築く。特に露使とは、応接全権となって交渉に当たり、樺太の北緯五十度以南、千島列島エトロフ島のわが国領有を主張した。井伊直弼大老就任により左遷されるが、文久三年(1863)、外国奉行に起用された。のち病のため退官し、江戸開城前の明治元年(1868)三月十五日に自害した。
 『長崎日記』『下田日記』『京都日記』など、彼の日記類は貴重な史料である。







◆正慶寺


北村季吟(きたむらきぎん)墓

 季吟は江戸時代前期の歌人俳人です。通称を久助といい、拾穂軒と号していました。はじめは祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を業としていました。俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学びました。元禄二年(1689)、幕府の歌学所に補せられ、元禄十二年(1699)、再昌院法印の称を受けました。
 著書に『徒然草文段抄』、『枕草子春曙抄』、『源氏物語湖月抄』その他があります。
 宝永二年(1705)6月15日、82歳で逝去しました。円頂角石の正面に楷書で「再昌院法印季吟先生」と題し、右側面には丸に井桁の家紋を書き、下に行書で「花も見ず郭公をも待ち出つこの世後の世、おもふ事なき」と辞世の句が刻まれています。裏面には「宝永二乙酉六月十五日、八十二歳卒」と刻んでいます。








◆神社

google mapに載っていたので来てみた。
何の神社なのかわからなかった。



分かりづらい場所にあり、良く見ないと見過ごしてしまう・・・。




妙顕寺



鳥居清信(とりいきよのぶ)墓

 鳥居清信は、江戸時代中期の浮世絵師で、鳥居派の始祖である。清信(俗称庄兵衛)は寛文四年(1664)浮世絵師鳥居清元の子として大阪に生まれた。貞享四年(1689)父に伴い江戸に移った。画技を父から学んだが、菱川師宣に私淑しその影響を大きく受けた。また狩野派や土佐派の画風も取り入れて独自の画風を築いた。父清元が江戸で歌舞伎の看板江戸で歌舞伎描いていた関係で清信も役者絵を描き、ついに鳥居派の役者絵様式を完成した。以後鳥居派は江戸における歌舞伎絵の流派として定着し、代々、清信の子孫に世襲されていった。代表作に「立美人」「傘持美人」などがある。享保十四年(1729)七月二十八日、六十六歳で没した。
 清信は浅草法成寺(現、豊島区駒込)に葬られたが、その後、墓所妙顕寺に移された。墓石には清信夫妻および清信の父母の戒名が刻されている。




弥生式土器の発見地

google mapにはこの坂は弥生坂というらしいが、説明板などは見当たらなかった。
弥生式土器の発見地」の説明板は坂の途中にあった。




<「弥生式土器」の発見地>
 明治十七年、東京大学の坪井又五郎、臼井光太郎と有坂修蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。これが後に、縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり弥生式土器命名された。

<発見地はどこか>
 「弥生式土器」の発見地は、その後、都市化がすすむなかではっきりしなくなり、謎とされてきた。推定地としては、次の三カ所が指摘されている。
 ①東京大学農学部の東外側(サトウハチロウ旧居跡付近)
 ②東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
 ③根津小学校の校庭内の崖上

<弥生二丁目遺跡の発掘>
 昭和四十九年春、根津小学校の児童が、東大校内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われ、二条の溝と貝屑、弥生式土器などが検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、昭和五十一年に弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定された。
 しかし、「弥生式土器」の発見地は、特定するにいたっておらず、現在も調査研究が進められている。





続く。