2019/02/16 上野散歩 01 日暮里駅/もみじ坂/旧谷中天王寺/天王寺/地蔵堂/鬱金(うこん)桜/天王寺五重塔跡

24時間勤務アケで、JR日暮里駅から東京メトロ根津駅まで歩く。
日暮里駅の南側にある改札からもみじ坂をあがり、谷中霊園に入っていく。



◆日暮里駅

スタートのJR日暮里駅。




◆もみじ坂



坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。




◆旧谷中天王寺



 本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺鎌倉時代後期、」日蓮上人に帰依した土豪関長耀の創建にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(1698)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改修、さらに天保四年(1832)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。
 本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(1891)頃と言われている。谷中霊園天王寺前町屋および隣接する銀杏横丁、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。
 昭和四十二年(1967)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。



天王寺

調べていたら、牧野富太郎の墓があるとのことだった。





境内社



毘沙門堂




山門



銅造釈迦如来坐像

 本像については、『武江年表』元禄三年(1690)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年(1690)、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和八年(1933)に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保七年〔1836〕刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年(1874)の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年(1933)六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年(1938)には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年(1908)刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年(1993)に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。




地蔵堂






鬱金(うこん)桜(谷中霊園内)




 この「鬱金(うこん)桜」は別名「浅黄(あさき)桜」とも呼ばれており、花の開花はソメイヨシノより二週間程度遅く、四月中旬ごろに淡黄緑色の八重の花が楽しめます。
 旧天王寺境内であった谷中霊園内には、江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、二代目歌川広重が描いた「江戸名勝図会 天王寺」のなかで「谷中天王寺・・・中略・・・境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の名木あり」と評され、江戸庶民に愛されていました。
 浅黄桜は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、第九回谷中花のフェスティバルを機に、この鬱金桜を植樹したものです。



天王寺五重塔跡(谷中霊園内)








 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄十二年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から十九年後の寛政三年(1791)に近江国滋賀県高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。
 総欅造りで高さ十一丈ニ尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四十一年(1908)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三十二年(1957)七月九日放火により焼失した。
 現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方ニ尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年(1870)の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。



続く。