2019/02/16 上野散歩 02 田中芳男墓/芋坂/羽二重団子/跨線橋/善性寺/隼人稲荷神社/御隠殿橋

谷中霊園とその周辺からJRに架かる跨線橋を渡って線路の東側に渡る。
説明板など見ると荒川区になっている。



◆田中芳男墓(谷中霊園内)




 幕末から明治期の博物・物産学舎、農務官僚。天保九年(1838)、信濃国飯田(現、長野県飯田市)に医師田中隆三(如水)の三男として生まれる。
 安政四年(1857)、伊藤圭介に入門、ここで医学・蘭学本草学を学ぶ。文久元年(1861)芳男は圭介に従い、幕府の洋学研究機関「番所調所(しらべしょ)」の一施設「物産所」勤務のため江戸に出る。慶応三年(1867)、パリ万国博覧会に赴き、ジャルダン・デ・プラント(フランス国立自然博物)を日本の自然史博物館の理想とした。
 明治三年、芳男は、町田久成(ひさなり)ととっもに大学南校に開局した物産局(文部省博物局の前身)で働く。ここで我が国の博物館創設のために尽力し、後の東京国立博物館国立科学博物館東京都恩賜上野動物園の基礎を築いた。明治四年、芳男の主唱により招魂社(靖国神社)で開かれた「大学南校物産会」は、近代博覧会の嚆矢(こうし)として画期的な事業である。また農会・水産会・山林会の会頭を務めるなど農林水産業の振興に更新した。
 大正四年、男爵を授けられ、翌五年六月二十二日、本郷の自宅で没する。享年七十七歳。墓石の正面に「従二位勲一等男爵田中芳男墓」とあり、表面に略歴が刻まれる。
 田中芳男墓は、平成九年台東区史跡として台東区文化財台帳に登録された。
※史跡見学をされる方は、マナーを守り、史跡だけでなく史跡周年の美観にも注意を払った上見学してください。





◆芋坂






 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で 自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規夏目漱石田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。

芋坂も 団子も月の ゆかりかな 子規



下記の跨線橋を渡った先にも史跡があった。

「右 いも坂みち」とある。
脇に「王子街道」とあった。

王子街道を調べたのだが信頼できる情報が得られなかった。
以前上中里を散歩中にも「王子街道」の道標が思い出した!
しかし、そのときも情報が得られなかったのか特に記載がなかった(汗
ovanrei.hatenablog.com




芋坂の道標から谷中に抜ける道。
この先に跨線橋がありその先に芋坂の説明柱がある。



道標の脇にあった石碑

「芋坂も 団子も月の ゆかりかな」




(フォトでは順番が逆になってしまっている)
◆羽二重団子




江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらぎと小粋な根岸の三味もきこえる塵外の小天地でありました。
文政二年、小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。
この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまゝ菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。




2019年再開予定と書いてある。




跨線橋










◆善性寺




山門



将軍橋と芋坂(善性寺)

善性寺は日蓮宗の寺院で、 長享元年(1487)の開創と伝える。 寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。宝永年間(1704~1711)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
   芋坂も団子も月のゆかりかな   子規




◆隼人稲荷神社





◆御隠殿橋




御隠殿は、 宝暦四年(1754)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。 御隠殿橋は、 その正門前の音無川にかけられた橋であった。 橋の長さ約二・七メートル、幅約三・九メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、 昭和八年音無川暗渠工事で取り除かれ、 橋げただけが道路の下に残っている。 往時、 このあたりは水鶏(くいな)の名所で、 やや下流には水鶏橋がかかっていた。


「くいな」がわからなくて調べたら、そういう鳥なんだね・・・・
しらんかった(汗




続く。