2019/02/16 上野散歩 04 旧平櫛田中邸アトリエ/養寿院/津梁院/日展会館/町田久成墓所/浄名院/旧吉田屋酒店

谷中霊園の南西側エリア、寛永寺の東側を散策。
2/8に散策したところと少しかぶる。



◆旧平櫛田中邸アトリエ

平櫛田中wikiで調べた。
『平櫛 田中(ひらくし(又は ひらぐし) でんちゅう、1872年2月23日(明治5年1月15日) - 1979年(昭和54年)12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。 』


コチラの建物でたまに展示があるらしく、WEBで調べると何個か出てきた。
Facebookもあるね。
今後チェックしてみようと思う。
小平に平櫛田中氏の美術館があるということだ。
http://denchu-museum.jp/




◆養寿院




笠森稲荷



◆津梁院





日展会館

なんか不正があったよね・・・・。
そのイメージが強い・・・。




町田久成墓所

google mapに載っていたので来てみたが、見つけることができなかった。

wikiで調べてみた。
『町田 久成(まちだ ひさなり / ひさすみ、1838年1月27日(天保9年1月2日) - 1897年(明治30年)9月15日)は明治時代の日本の官僚、僧侶。旧薩摩藩士(島津氏庶流)。通称・民部、号は石谷
慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)[1]。小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。 』

こちらのページに載っていたので、おそらく写真の場所あたりであっていると思われる。
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/machidaHisanari.htm



◆浄名院





境内社



八万四千体地蔵




 この寺の名は始め浄円院といい、寛文六年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。享保八年(1723)浄名院となる。表門は享保年間(1716~1735)の建立。
 地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大坂に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石像地蔵菩薩像建立の発願をたてた。明治九年(1876)には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の新者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第6番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争戦没者を弔うため、明治三十九年(1906)新たに建立されたものである。
 なお、旧八月十五日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。



山門




◆旧吉田屋酒店



 かつて谷中6丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年(1987)移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年(1989)には、1階店舗と2階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。
 棟札によれば、明治四十三年(1910)に新築して、昭和十年(1935)に一部改築したもの。正面は1・2階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。1階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治四十三年(1910)の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。




続く。