2019/03/19 本所吾妻橋散歩 05 正一位稲荷神社/川島編みもの博物館/向島歩道橋/見番通り/三囲神社

先程のエリアから西へ向かう。
こちらも住宅街が続く。



正一位稲荷神社






◆川島編みもの博物館

google mapにはこの名前で載っていた。
博物館なのか、ギャラリーなのかわからない。
どんなところかわからず怖くて入れなかった(w




向島歩道橋








◆見番通り

まわりはやっぱり閑静な住宅街。





◆三囲神社




 弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地よりも北の田んぼの中にあった。文和年間(1352~56)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく表れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲(みめぐり)」の名が付けられた。
 三井家は江戸進出時に、その名にあやかって、守護神とし、平成21(2009)年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。
 日照りが続いていた元禄6(1693)年、俳人室井其角が能因法師小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を題字に詠みこんだ「ゆふだちや田をみめぐりの 神ならば」の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。



恵比寿神・大國神







顕名(あきな)霊社

三井家先祖をまつるとある。
フェンスで囲まれていて近寄ることさえできなかった。




白狐祠









老翁老嫗(ろうおうろうう)の石像




 元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
 俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を募って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には、「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。




富士見稲荷神社




境内社




境内社




境内社




楽殿





宝井其角(むろいさかく)「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)




 元禄六年(1693年)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。
ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまを見て、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊ふた地や 田の見めぐりの 神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。
 其角は寛文元年(1661年)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(1777年)に建立されたものが摩滅したので、明治六年(1873年)に再建されたものです。




宗因白露の句碑




 「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化九年(1812)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。
 宗因は慶長十年(1605)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮連歌宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。




鳥居






続く。