方南町駅からだいたい丸の内線沿いに中野富士見町駅方向(北東)に向かって散策する。
この「筆塚」の字は、戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられています。
戸村氏は、明治3年、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば、若いころに幕府の関係者から、数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。
明治5年に学制が発布されるまで、庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め、中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は二十五名で、教場は宝福寺や村内の民家をあて、学制発布後も存続し、私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。
この筆塚は、師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられます。これは、中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。
◆多田神社
多田稲荷大明神
雑色村と多田神社
現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。
当社は、約900年前、寛治六年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社?雑色地域の間に通じていたともいわれています。
「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。
神楽殿
◆前田工務店
ものすごく立派な桜♪
この前田工務店さんの桜なんだろうね。
◆租税資料館
WEBで調べてみたら図書館のような場所みたい。
ちょっと博物館的なものだと期待してたんだけどなぁ・・・・。
続く。