労働安全衛生研究所からは北東に進み清瀬駅まで散策。
◆清瀬病院跡地
清瀬における結核治療の歴史は、昭和六(1931)年に「東京府立清瀬病院」が開院したことに始まります。
発端は、昭和二年の東京府議会で府立結核療養所の清瀬設置が可決されたことでしたが、当時の清瀬村議会はこれに反対の陳情書を提出。一旦、この計画は中止となりましたが、翌年再び清瀬への設置が決定されると、これに対して村議会はさらなる反対の議決と、それに同意する地元住民の陳情書を提出し、当地への結核療養所の設置に反対の意思を示しました。
しかし、当時の小島長太郎村長は、無医村であった清瀬村の医療の充実を図るため、療養所の設置を了承。昭和六年十月に「東京府立清瀬病院」が開設。
当時の清瀬病院は、赤松の雑木林に囲まれたおよそ11000坪の敷地に100床の病床を持つ療養所でしたが、利用者の増加によりしだいに800床を超す大療養所となりました。
周辺には、昭和八年にヨゼフ・フロジャク神父による「療養農園(現在のベトレヘムの園病院)」が開園。さらに同十四年「傷病軍人東京療養所と共に厚生省へ移管となり、「国立療養所東京病院」と名称をかえ、2000床を超える大病院となりました。
当時、十五もの結核関連の病院が建ち、約5000人に及ぶ人々が療養生活を送ったとされ、見舞客が増加。駅周辺も活性化し、清瀬の名は全国的にも知られるようになりました。
ところが昭和四十五年一月、同病院の第十四病棟西側から出火。古い木造病棟五棟を全半焼する火災が発生。このことで二月に昭和六年から引き継がれた清瀬病棟の閉鎖が決まり、療養中の患者は「東療病棟(傷痍軍人東京療養所の場所)」に建てられた新病棟に移され、清瀬病院の歴史に幕が下りました。
作家の吉行淳之介が昭和二十九年「驟雨(しゅうう)」で芥川賞を受賞したのは、清瀬病院で手術を受けて、療養中のときでした。
清瀬病院跡地は、清瀬市指定有形文化財「外気舎記念館」と共に、国民的疾患であった結核治療の歴史を物語っています。周辺地域には現在でも結核研究所や日本BCG研究所が所在し、世界規模で結核の撲滅に貢献しています。
◆わが国最初の理学療法士および作業療法士専門養成施設発祥の地
<<上記の門扉が写った写真左側の裏に建っている碑>>
国立療養所東京病院附属
リハビリテーション学院 昭和38年5月1日
厚生省によって設立された。
初代学院長 砂原茂一
パイオニア精神に基づいた全人的
医療教育が行われた。
独立行政法人国立病院機構東京
附属リハビリテーション学院として
平成20年4月1日閉校となる。
◆清瀬聖母教会
◆清瀬駅
ゴールの西武池袋線清瀬駅。
散歩中は汗ばむようになってきたね。
まだまだ行きたい場所がたくさん残っているので清瀬にはまた来る予定。
清瀬駅に泊まっていた電車。