2019/06/03 幡ヶ谷散歩 01 笹塚駅/栄湯/笹塚東公園/清岸寺/笹塚橋跡/庚申塔・馬頭観音/神橋跡

24時間勤務アケで、笹塚駅から幡谷駅北側エリアを通って新宿まで散策。
この日記のエリアは笹塚駅北側を京王線沿いに東に移動。




笹塚駅

スタートの京王線笹塚駅





◆栄湯

銭湯♪




◆笹塚東公園




◆清岸寺



清岸寺本堂

 清岸寺本堂は、明治三十二年(1899)頃に千葉県岩井町市部(現南房総市)の今村正次が建てたもので、通称岩井御殿と呼ばれていました。昭和二十年(1945)五月の空襲により本堂を失った清岸寺は、昭和二十四年にこの岩井御殿を譲り受け、同二十六年に移築してきたのです。
 本堂は、単層切妻造(たんそうきりつまつくり)の瓦葺きで、南側に面して建てられています。本堂は仏間のある西側の六室が中心であり、東側三室の附属部からなっています。各部屋の境界には大きな鴨居が設けられ、襖(ふすま)あるいは障子が立てられています。全体には一見幅の広縁(ひろえん)が廻り、南側には本体部中央に二、五間幅の附属部分、その前方には四間幅の玄関が付きます。もともとの建物の部材の痕跡から、住宅を仏堂に移築・改造したときに、仏間部分を立派にするために、柱がスギから太いケヤキに交換されたことがわかります。
 移築後は、昭和四十五年ごろに瓦の葺き替えが行われたほか、現在にかけて順次、主体部と附属部との境界の収蔵、附属部の客用玄関の拡張、脇陣天井の改造などが行われました。
 清岸寺本堂は、住宅を仏堂に転用した事例として、かつ明治期における高級な住宅の姿を知ることの出来る事例として貴重な建造物といえます。




浄霊殿




瘡守(かさもり)稲荷




祭祀の由来や年代の詳細は不明ですが、江戸時代よりこの地にお祀りされている稲荷神です。
 古くから難病と恐れられていた疱瘡(天然痘)をはじめ、皮膚病(できもの・腫れ物)などに御利益があると近隣の人びとから厚く信仰されていました。
 「祈願の際には土の団子を供え、全快したときには、本物の米の団子を供えてお礼詣りをする」という言い伝えがありました。そのため、明治の末まで境内に二軒の団子屋があったそうです。昭和の初めごろまでは常に小皿にもった土の団子が供えられていました。お供えする土の団子は、必ず「境内のものでない土」を用いたといわれています。







水上忠蔵(みずかみちゅうぞう)先生追慕碑





 この追慕碑は、幡代小学校の前身である白水分校の教員で、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられた水上忠蔵先生の教え子が、明治四十五年(1912)四月七日に建立したものです。このたび、幡代小学校の開校百三十周年にあわせて説明板を設置しました。
 先生は、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられましたが、生徒の指導はもとより、校長をよく補佐し、幡代小学校には、なくてはならない存在でした。
 また、教育に関しては、とても厳格であったようです。先生の没後、二十余年を経過しましたが、教え子たちは先生に対する尊敬や親しみを思い出し、それを後輩たちに残すことを目的として、清岸寺の境内にこの追慕碑を建立しました。先生は、明治二十四年(1891)一月十八日に六十一歳で亡くなりましたが、先生と生徒の結びつきや愛情の深さを知ることができます。







板碑/念仏供養塔/庚申塔  五輪塔




 本堂の左手に建立された幡ヶ谷聖観音の右丁にある板碑は、室町時代の応永四年(1397)八月二十八日の造立で、上部の二条線の下に「阿弥陀如来」を表す凡事が彫り込まれています。板碑は墓塔ではなく、一種の卒塔婆で、材質は秩父産緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれる緑がかった石を使っています。板碑は本区には数少ない中世の資料です。
 墓地の入り口の右手には六地蔵があり、その背後の一段高いところに、舟形の光背に浮彫りとなった地蔵尊(二基)があります。光背に「為念仏諸衆二世安楽」「武州万念仏供養」などと刻まれていることから、江戸時代には幡ヶ谷(「畑ヶ谷」とも書いた)や代々木村に念仏講があり、その講中により建立されたのがこの念仏供養塔です。
 念仏供養塔のとなりにある浮彫りの猿型半跏像(さるがたはんかぞう)片ひさを立てた坐像)は庚申塔です。このような形態をした庚申塔は、区内では非常に珍しいものです。



五輪塔
 五輪塔は、平安時代末から見られる墓石などで、古いものとしては平泉中尊寺仁安(にんあん)四年(1169)の銘のある五輪塔が確認されています。
 区内では、江戸時代の大名墓地に五輪塔が多数存在しますが、清岸寺に所在する五輪塔は、形態から制作年代不明ながら中世(室町時代)にまで遡るものです。風化や摩滅によりわずかに水輪に梵字が判読できるものが一基あります。四基の材質は、安山岩製のものが二基、砂岩製のものが二基となっています。
 清岸寺は、もとは現在の(社)東京乗馬倶楽部(代々木神園町4番)付近に所在していましが、代々木練兵場の建設によって、廃仏毀釈で廃寺となった法界寺跡に移されました。これら五輪塔が法界寺にあったものか清岸寺から移ってきたものか、来歴についての詳細は不明です。
しかしながら、本五輪塔は中世にさかのぼるものとして希少であり、中世資料の少ない当区にとっては極めて重要なものです。





魚籃(ぎょらん)観音



二十三観音の一つ。
魚の入った籃を持つお姿の観音様。悪鬼・毒竜などで例えられる暴悪なもの、恐ろしいものの害を取り去って下さる観音様として知られている。 
 
大変古い観音像であり、渋谷区では清岸寺だけにある。




酒呑地蔵




 この地蔵は、江戸時代の宝永五年(1708)にたてられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。
 むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は、故あって家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど、一生懸命に働いたといわれています。
 瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りして来ました。
 平成二十三年一月十日に本町五丁目の地蔵橋のたもとから清岸寺に遷座し、二月十九日に開眼供養が行われました。新たなお堂も建立され、安住の地となりました。











◆笹塚橋跡




下は暗渠だね。





庚申塔馬頭観音






 堂内には庚申塔がまつられています。ここの庚申塔は、天邪鬼(あまのじゃく)もふまえた六臂(ろっぴ)(手)の青面金剛立像で、庚申講の人々によって明治五年(1872)に造立されたものです。庚申講とは、昔の暦に使われた庚申の夜、講の人々が集まり、念仏を唱えながら夜明けを持つ信仰で、無病息災を祈りました。
 また、正面金剛像は恐ろしい疫病から村人を守ってくれるものと信じられていました。
 庚申堂の右前に、馬頭観音を刻んだ石碑があります。これは観音菩薩の一形態であり、農村時代には農耕や運搬に重要な役割を果たす馬を守ってくれるものと信じられ、大正十一年(1922)に造立されたものです。
 二体とも造立の年代が比較的に新しいことから、江戸時代にはじまったこれらの信仰が長く続けられてきたことがわかります。
 平成五年六月八日に、庚申塔建立百二十年を記念して、老朽化したお堂は、新しく建て替えられました。地域の方々の厚い信仰により、今日に至るまで庚申塔は、大切に守られているのです。

※少し字がかけているかもしれません。







◆神橋跡

こちらも下は暗渠だね。








続く。