2019/06/07 群馬ツアー 01 渡良瀬遊水地/三県境/雷電神社/赤岩渡船/邑楽町シンボルタワー「未来MIRAI」

24時間勤務アケで、友人の案内による群馬ツアー。
宇都宮線古河駅に集合し出発。




渡良瀬遊水地
watarase.or.jp
雨で写真を撮らなかったのでHPでどうぞ。
ハートの形をした綺麗な形の遊水地。


wikiには、
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池である。 』
とあり、
『遊水地の土壌には2010年現在でも銅などの鉱毒物質が多く含まれている。』
とあった。

2012年ラムサール条約に登録された。



ラムサール条約についてちょっと調べてみた。
ラムサール条約 - Wikipedia


僕の母校のすぐ近くにあった「大山上池・下池」が卒業後に登録されていた・・・。
池の周りがマラソンコースだったんだよなあ。

大山上池・下池 - Wikipedia






◆三県境

埼玉県、群馬県、栃木県の県境。







 今から100年以上前明治43年(1910)から着手された渡良瀬川谷田川の流路が変更されました。したがって旧河道は廃川となり民地として払い下げられました。
 その後谷中湖造成工事により発生した土砂に埋め立(約2m)られ耕作地として整備され、日本で唯一の平地の三県境となりました。



雷電神社

創建は社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされている。
wikiより



弁財天




稲荷社/金刀比羅神社/天満宮



神馬



八幡宮



奥宮



神馬

神馬が二つあった。



福禄寿


つつじの舘林七福神めぐり

 椿の福禄寿 福禄寿(ふくろくじゅ)は七福神の一、幸せの神の名で、福(ふく)は子孫繁栄のしあわせ、寿(じゅ)は健康長寿のしあわせを意味します。
 中国は宗(そう)の時代、元祐(げんゆう)年間(1086~1094)に、その姿が短身で、頭が長く、豊かなひげを蓄えた老人が都に現れ、我は人の長寿を自由にあやつる聖人である、と語ったといいます。この老人を宮殿に呼び、酒をもてなし問うたところ、老人は、南方から来たと言い、しばしば黄河の濁流を清める不思議な行いをした、と言います。皇帝はこの老人こそ、人の寿命を支配するという寿星(南極星)の化身であると認めたと伝えられます。
 はるかな昔、大椿(だいちん)と呼ばれる霊木(れいぼく)があって、八千年の春を永らえたといわれます。長生きのことを椿寿(ちんじゅ)というのはここから来ています。当神社の椿の庭の福禄寿は不老長寿・所願満足の宝玉を捧げ持ち、元気な子供を連れています。
 よくよくお祈りされて、日々、陰徳(いんとく)をお積みくださり、御加護を戴(いただ)かれますよう。







◆赤岩渡船

手前に渡し用の船。
遠くに「福川水門」が見える。
福川水門 | 利根川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局





赤岩渡船の由来

 赤岩渡船の歴史は古く、既に永禄年間(1558年~1569年)上杉輝影(謙信)の案内状に寄れば、船橋を架けて軍が渡河していたと伝えられている。
 この河岸は、江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資などの集積地であり、上下流の物資の中継地点としてにぎわい、赤岩の地は宿場町として栄えた。また、坂東十六渡津(渡場)の一つに数えられ、中山道熊谷、行田方面及び、野州足利方面への往還として水陸交通の要衝であった。大正十五年に県営となり、昭和二十四年千代田町が県より直接委託を受け管理運営に当たっている。現在、群馬県邑楽郡千代田町赤岩と、埼玉県大里郡妻沼町葛和田を結ぶ県道熊谷、舘林線の道路渡船として地域の人々に利用されており、付近は水上レジャーのメッカでもある。








 赤岩渡船は千代田町赤岩から利根川をはさんで向う岸の埼玉県熊谷市葛和田を動力船で結んでいる、主要地方道(県道)熊谷・舘林線上にあります。利根川広しと言えども現在3つしかな残っていない利根川を渡る橋の無い公道の1つです。そのうち主要地方道はこの赤岩渡船だけで、年間数千人の人々に利用されています。
 赤岩渡船の歴史は古く、戦国時代、上杉謙信の文献にも登場します。その後江戸時代には水運が発達し、利根川を利用して江戸や房総方面との交通が盛んにおこなわれました。町内では赤岩のほか、舞木、上五箇、上中森、下中森などの河岸と呼ばれる渡船場が栄えました。特に赤岩は水深もあり立地条件にも恵まれ、江戸からの大型船の終点という河川交通の要所として、坂東16渡津に数えられ繁栄に沸きました。
 しかし、永かった繁栄も明治時代の中頃までで、その後は、鉄道等の交通機関が発達するにつれ急速に衰退し、渡船場として機能だけ残りました。各地の渡船場も廃止の一途をたどりましたが、この赤岩渡船は、ただ一つこの地域で残された数少ない河川交通手段として、人々に愛され、利用されていまに伝わっています。
 大正15年県営、その後昭和24年から県委託事業として千代田町が管理運営を行っています。





赤岩河岸 水運の歴史

 赤岩の河岸は、関東平野貫流し、日本三大河川の筆頭で坂東太郎とも呼ばれる利根川中流域の左岸に位置し、鶴舞う形の群馬県の首の部分に当たる。戦国時代の末(天正十三年頃)には、舟による輸送や舟をつなぎ合わせて船橋かけて武士団を渡したことが上杉謙信の文献にも登場することから、昔から舟が多数存在し、舟を利用するのに都合の良い地点であった。
 本格的に船を利用した水運が発達するのは江戸時代になってからで、高瀬舟などの大型船が利根川の水運を担った。幕府の命により各地から年貢米や参勤交代の荷物、蚕糸、絹織物などの多くの産物が日本橋へ運ばれるようになり、五街道を使う陸送よりも高瀬船を使った鮒運は、安く大量に物資を運べることか急速に普及した。水深の深かった赤岩河岸は、高瀬舟の定船できる利根川の最上流部であったため、各地から物資が収集され、水運の拠点として重要な役割を果たすようになった。この当時、赤岩河岸には高瀬船20艘、小舟100艘以上があったと言われている。
 明治になると富岡製糸場(平成二十六年世界遺産登録)が創業し、そこで生産された生糸を倉賀野(高崎市)がら小舟で赤岩へ運び、高瀬船に載せ替えて江戸川から東京湾経由で横浜まで運ばれた。
 その後、日本鉄道第一区(明治十七年高崎まで延長、現在のJR高崎線東北本線)の開通により高瀬舟を利用した水運は急速に衰退していったが、渡し船を利用した水運は昭和初期まで続き、桐生産の絹織物などは赤岩河岸に集荷され、対岸の葛和田(埼玉県熊谷市)経由で熊谷駅から上野駅へ輸送された。また、自動車が普及し始める昭和四十年代初頭までは、渡し船で対岸側に嫁ぐ花嫁や嫁入り道具を運んだ。
 現在では、この地域で残された数少ない河川交通手段として渡船機能だけ残り、人々に愛され、親しまれながら利用されている。









邑楽町シンボルタワー「未来-MIRAI-」

完成は1993年だから、僕が上京した年だ!
全長は56.5m。
公式サイトが見当たらないので数字は正確でない可能性がある。





エレベーターの中に、スカイツリーと比べるパネルがあった。








あいにくの雨。
雨でなければ展望室のさらに上にある屋上展望室に行けるとのことだった。




続く。