2019/06/27 01 UR 集合住宅歴史館

定例の社会科見学で、北八王子にあるUR集合住宅歴史館へ行ってきた。



最初に会議室のようなところで集合住宅に住むための啓もうビデオを見た。
だいぶ昔の映像だった。
youtubeにあったとのことでUPしてみた。
https://www.youtube.com/watch?v=eyA4UeFqN-Q&feature=youtu.be

団地への招待(1964年)




ビデオを見た後は歴史館へ移動。





◆UR 集合住宅歴史館
日本におけるRC集合住宅の歴史も100年を超え、この間に蓄積された技術を伝承し、次の世代へ引き継いでいくことは重要です。UR都市機構は日本での集合住宅に先導的役割を果たしてきた立場から、歴史的に価値の高い集合住宅を移築復元するとともに、集合住宅建設技術(広報・部材・部品・設備機器など)の歴史・変遷を展示公開しています。


日本におけるRC集合住宅の歴史も100年を超え、この間に蓄積された技術を伝承し、次の世代へ引き継いでいくことは重要です。UR都市機構は日本での集合住宅に先導的役割を果たしてきた立場から、歴史的に価値の高い集合住宅を移築復元するとともに、集合住宅建設技術(広報・部材・部品・設備機器など)の歴史・変遷を展示公開しています。






この建物の中に同潤会アパートの内装等を移築。
高床になっているのは配管などの研修のため。





◆代官山アパート

代官山アパートは、同潤会のアパートメント事業のひとつとして建設されました。
風呂は共同でしたが、和洋の生活に対応するためにコルクの上に薄縁敷きとした居室の床仕上、水洗便所やガス設備、ダストシュートの採用など、新しい生活への提案が見られます。また、避難用の縄梯子を備え、防火性能をもたせるため玄関扉には鉄板を巻くなど
地震や火災への対策がとられています。独身住戸は、造りつけの寝台や各所に設けられた収納、換気への配慮など住みやすさへの細かな工夫がみられます。





代官山アパートの単身者向けのお部屋

寝台があったが今の人じゃあ長さが足りない・・・・。
小窓があって開ければ通気は良さそうだが、向こうは廊下。





コルクの上にゴザを敷いている。





水回りなどはなく、トイレ・食堂は共用。
ここにガス栓が付いていてガスストーブをおけた。
ちょっとしたお湯くらいは沸かすことができたとのこと。



食堂のカウンター

居住者じゃない人も有料で利用できたとのこと。





同潤会 清砂通りアパートメントの飾り

かなり重たい・・・。





同潤会 清砂通りアパートメントの模型






代官山アパートの世帯向けのお部屋












当時は電球の数で料金が決まっていたとのこと。
そこでパナソニックの創業者、松下幸之助二股ソケットという「電気の供給口を二股にして、電灯と電化製品を両方同時に使用できるようにした」ものを改良して安く売ったところ大ヒットしたということだった。






蓮根団地

日本住宅公団が、初めて作った代表的な住宅です。流し台はいわゆる人研ぎで、ダイニングで食事をつす生活を促すため、テーブルが備え付けられました。ダイニングキッチンと二つの寝室を持つ住宅は2DKと呼ばれ、公団住宅の代名詞になりました。
郊外に続々と建設された団地で、冷蔵庫をはじめとする家庭電化製品を使った核家族の暮らしぶりは、「団地族」として一種の社会現象になりました。



ダイニングキッチンの誕生
1955(昭和30)年に発足した日本住宅公団の賃貸住宅は、それまでの公営住宅より一坪広い13坪でした。このプラスアルファの広さを、台所・食寝分離にこたえるかたりでこうえいじゅうたく51C型や公務員住宅をもとに生み出され、DKスタイルという戦後住宅の原型となりました。

食寝分離
食事をする空間と就寝する空間を分けることで、秩序だった住生活が効率的に行われる基本条件。





ダイニングテーブルが珍しくて引っ越すときにもっていく人もいたので鎖でつないでいたという(汗





















阿佐ヶ谷住宅

 阿佐ヶ谷住宅は、東京都杉並区に1958年(昭和33)に建設された。敷地面積16,000坪、総戸数350戸の住宅団地です。
 配置、造園設計などは公団によるもので、前川國男に傾斜屋根のテラスハウスに加え、陸屋根のテラスハウスと3.4階建ての中層が、緩やかに曲がる道路に沿って配置されています。それぞれのブロックには、コモンと呼ばれる共有のオープンはスペースがとられ、テラスハウスの専用庭とともに豊かな屋外空間を生み出しています。








前川國男wikiで調べた。
ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。丹下健三、木村俊彦は前川事務所の出身であった。 』
すごい方なんですね・・・・。




多摩平団地

専用庭を持った屋根建ての低層住宅をテラスハウスといいます。テラスハウスは、昭和30年代主に郊外の団地で建設され、庭を介した独特の住まい方やコミュニティを育みました。
構造上簡易なことからブロック造を始め、RC構想の壁式やラーメン構造、プレキャスト工法(PC)のさきがけとなるTilt-Up工法など各種広報の模索が行われました。流し台は、プリント合板や一体化したステンレストップが採用され、部品化・工業化が本格的に始まりました。


























階段がかなり急!!









◆晴海高層アパート

公団初期の高層アパートで、3層6戸分を一単位として住戸規模の可変性を持たせた架構方式の採用やスキップ形式のアクセス、従来の寸法にとらわれない畳など、戦後日本の合理性への追及がみられます。流し台初めて採用されたステンレスのプレス加工のものです。
躯体の寸法精度の向上や、手摺等のプレキャスト化、内外装材の部品化などの試みも行われ、のちの工業化の先駆けとなりました。




<エレベーターの無い階(廊下がない分広い)>






















<エレベーターのある階>








どうやって使っていたのかはわからないが、グレーのボックスでは電話ができたとのこと。
電話交換手が常駐?
電話の端末をつないで使っていたとのことだったがよくわからなかった。



子供たちが遊べるように玄関前は広く作って、玄関ドアも引き戸にしたのだが、
あまりにもうるさくて遊ぶの禁止になったとのこと。
奥様方も井戸端会議していたとのことだけど、かなり響くだろうね・・・。
















エレベーター




1,3,6,9階に停まる。
他の階の人は最寄り階で降りて階段で移動する。
しかし、落書きがすごいなあ(w


晴海高層アパートは、最初は朝、黒塗りの車が列をなすような高所得者層が多く住むところだったけど、
老朽化に伴い住民の層が変わり、それまでなかったエレベーターの落書きも起こるようになった。



案内図





集合住宅部品の変遷/住宅設備の変遷モデル

通風や採光を重視した木製から耐火や防犯性能を重視した鋼製へと移り変わった玄関ドアなど、集合住宅における部品は、時代とともに大きく変化してきました、ここでは案内板、照明スイッチ、配管など建築と設備部品の変遷を紹介しています。







昭和30年(1956)の日本住宅公団設立から半世紀、台所、浴室、トイレは、より快適にそして安全になりました。このコーナーでは、時代ごとに水廻り空間を再現して、住宅設備の歩みを紹介しています。

















最後にアンケートを書いて見学会終了。
ボリュームがあって見ごたえのある見学会となった。
撮影に夢中になってしまったので、また来て説明をじっくり聞きたい(w