2019/07/09 浅草散歩 04 浅草寺

何度か来たことはあるけれど、じっくり見るとかなり史跡などがあるんだね!
写真におさめたものだけUPします。



◆雷門



雷門(風雷神門)

 天慶五年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建されたのが始まり。
 門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面達髪(きめんほうはつ)、風袋(かざぶくろ)を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の輝を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。
 現在の門は、慶応元年(一八六五)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。
 浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。



聖観音宗総本山 金龍山浅草寺(あさくさかんのん)

 御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏)
 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音善薩さま
 観音さまは、多くの仏さまの中でも最も総悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・御霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ御加護なさってきました。観音様のご信仰とは、観音様に「慈悲」のお心を頂いて生きると、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
※ご参拝の際には合挙して「南無観世音善藤」とお唱えしましょう。

 縁起(由来)
 時は飛島時代、推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、愉識浜成・竹成の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁勝澇中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(ごうしはじめのなかとも)(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音蓄薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供姿に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本導をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の旋は厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京総の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794から864、浅草寺中興開山・比叡山台座座三世)が雷山され、お前立のご本弊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって箒府の祈願所とされてからは、業塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく緊栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、昆衆信仰の中心地となっている。



仲見世




一、浅草のあけぼの
 浅草は利提川・荒川・入間川が運ぶ土砂の堆積によって作られた。古墳時代末期に人々が住んでいたことは、浅草の本坊・伝法院(でんぽういん)に残る「石棺」が示してる。この東京湾に面した浅草は、はじめ良民と漁民の暮らす小さな村であったろうが、やがて隅田川舟運による交通の要衝として、また、観音様の示現による霊地として歴史的あけぼのを迎えるのである。

二、ご本尊の示現
浅草寺縁起』によれば、推古天皇三十六年(628)二月十八日の早朝、墨田川(当時の宮戸川)で魚を捕る槍前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が一体の仏像を感得した。

三、浅草寺の草創
 二人の漁師が感得した仏像を郷司の土師中知(はじのなかとも。名前には諸説ある)に示した処、聖観世音菩薩像とわかった。そこて、この兄弟は深く帰依し、中知は自ら出家し、自宅を寺に改めて尊像を祀ったのが浅草寺の始まりである。
 この三人を祀ったのが「浅草神社、三社さま)」である。一方、そうした録起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという伝承もあった。

四、慈覚大師中興の開山となる
 ご本尊が示現して十七年後、大化元年に勝海上人(しょうかいしょうにん)が浅草寺に来らに、観音堂を建立し、ご本尊を秘仏と定めた(秘仏の由来)。
 その後、天安元年(857)慈覚大師円仁(えんにん)が比叡山(天台宗の総本山)より来寺し、ご秘仏に代わる本尊ならびに「御影版木(みえいのはんぎ)」を謹刻された。
版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るものだろう

五、平公雅(たいらのきんまさ)堂塔伽藍を建立
 平安時代中期、天慶五年(942)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、浅草寺に参拝した。その折、次は武蔵野国守に任ぜられるように祈願した処、その願いがかなったことから、そのお礼に堂塔伽藍を再建し、数百町を寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の一堂であったことから、浅草寺天台宗の法の流れに属していたことが知られる。



◆伝法院

庭園は一般公開時のみは入れるとのこと。
2019年は整備工事のため公開がないとのことだった。




 伝法院は渋草寺の貫首(かんす)が居住する本坊の称号である。客殿は安永五年(1776)、玄関は翌六年の建築である。
 客殿は大規模な方丈形式の建物で、仏壇を広く構える内陣三案を並べた平面構成に特徴かあり、本尊阿弥陀如来坐像(台東区指定文化財)を安置する。六月の山家会(伝教大
師の忌日法要)、十一月の霜月会(天台大師の忌日法要)をはじめ、故人の追善供養、寺内徒弟の加行(けぎょう)などが行われる。
 台所・小書院・大書院・新書院は明治後期から大正期に復興した建造物である。伝法院の主要建物六棟は平成二十七年に国重要文化財に指定された。
 建物の背後には、大池泉を中心とする池泉庭園があり、江戸時代初期の作庭と考えられている。伝法院庭園として平成二十三年に国名勝に指定された。池畔には京部表千家の茶室、不審庵を模した天祐庵(東京都指定文化財)がある(非公開)。





◆宝蔵門(仁王門)







五重塔








浅草寺





ほおずき市









◆平和地蔵尊




 第二次世界大戰はその規模においても その被害についてもまことに甚大であった
 ことに昭和二十年三月十日の大空襲には この附近一帯は横死者の屍が累として山をなしその血潮は川となって流れた その惨状はこの世の姿ではない これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ 世界平和建設の基となるものである ここに平和地蔵尊を祭り その悲願を祈るため 昭和二十四年四月こゝに安置された次第である



敷地内に「龍郷定雄翁」胸像。
WEBで調べると、平和地蔵尊建立のために私財を投じた方とのことだった。





◆久米平内堂





 久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和三年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。
 平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
 その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
 平内堂は、昭和二十年(1945)3月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和五十三年(1978)十月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。





◆二尊仏




 「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組石は、長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。
 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享四年(1687)八月に造立した。
 江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町東横町(現、千代田区鍛冶町2丁目)の太田久衛門正儀(藤原正儀)鋳造の作。
 安永六年(1777)二月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。
 高瀬仙右衛門は上野国館林大久保村の人、江戸伊勢町(中央区日本橋本町1丁目)の成井善三郎の店の番頭となり、後、主家への報恩菩提のためにこの像を寄進した。観音像はもと左手に蓮華を持っていたのであろう。
 なおこの像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄三年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。




◆母子地蔵尊





阿弥陀如来





 阿弥陀知来とは、無量の慈悪と慈悲の光で世界を照らし、西方極楽浄上にあって我々を救済してくださる仏さま。
 江戸時代前期の承応三年(1654)に、江戸の人々の願いで造立された。なおこの年には渡食寺が江二で初めての御開帳を行いい多くの人々で賑わった。
 本像は、後の文化一〇年(1813)に編纂された「浅草寺志」に載せられており、江戸時代より我々を見守られている。
南無阿弥陀仏




地蔵菩薩像・阿弥陀如来





 中央にお地蔵さま、左右には阿弥陀さまが奉安されている。
 中央のお地蔵さまは、我々衆生を苦しみから救ってくださる仏さま。
 左右に奉安される阿弥陀さまは、西方極楽浄土にあって無量の慈悲と智慧の光で我々衆生を救済してくださる仏さま。
 この三体の仏さまは、江戸時代より穏やかに我々を見守られている。

右  阿弥陀如来像  覧文十一年(1673)造立
中央 地蔵菩薩像   享保十一年(1726)造立
左  阿弥陀如来像  延宝五年 (1677)造立






添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚

 つきいだす鐘は上野か浅草か
 往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋
 誰を待つやら恨むやら
 身をば欄干に投げ島田、チョイトネ



 添田唖蝉坊
 本名・平吉 筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生
まれる。昭和19年(1944)2月8日歿。享年73歳。明治20年代の壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「ああ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正正史」ほか。

 添田知道
 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和55年(1980)3月18日歿。享年77歳。父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。



◆弁天堂



 弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和五十八年に再建されたもの。
 ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千
葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
 境内の鐘楼の鐘は、元禄五年(1692)五代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時
の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝六時に
役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。
 弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。




池はあったが水がなかった。







松尾芭蕉句碑(弁天堂境内)

敷地に入れなくて斜めから撮るしかなかった。



 俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松雄芭蕉は、寛永二十一年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。
 芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松雄芭蕉は、元禄七年(1694)十月十二日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。
 この句碑は寛永八年(1796)十月十二日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
 83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
 奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、寄しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。



◆時の鐘(弁天堂境内)




 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。
 鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m。
 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄五年(1692)八月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
 この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松雄芭蕉の句

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

は、あまりにも著名である。
 昭和二十年(1945)三月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和二十五年(1950)五月再建されたものである。




◆旧五重塔







◆旧仁王門礎石




 慶安二年(1649)十二月二十三日、旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により、再建落慶した旧仁王門(国宝指定現宝蔵門と同規模)は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正
明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(1945)三月十日の東京大空製により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
 その後、現本堂に続き昭和三十九年(1964)四月一日、仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木性があり、それぞれに基礎石
がありましたが、戦火に遭い、ひび割れ破損し原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
 石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は10〜15cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
 江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。





浅草寺の神木・いちょう




 浅草寺本堂東南に位置するこのいちょうは、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝
から発芽したと伝えられる。
 昭和五年に当時の文部省より天然記念物に指定されたが、昭和二十年三月十日の戦
災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜
けた神木として、今も多くの人々に慕われている。






◆ちょっと一休み・・・・

屋台で買った唐揚げ。
僕の大好物(w
珍しくビールは我慢する(ww





◆二天門






 この二天門は、慶安二年(1649)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺東照宮は元和四年(1618)に建立されたが、寛永八年(1631)と寛永十九年(1642)の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮江戸城内の紅葉山に移された。
 明治初年(1868)の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。



 現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年(1957)に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。
 二天門は昭和25年(1950)、国指定重要文化財に指定された。




◆手水鉢

二天門のすぐ隣にあった。





浅草神社




 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安二年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんださら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。








◆花塚




「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。
笠翁斉乱鳥は、享和三年(1803)7月晦日死去。
享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3-25-3)に埋葬。悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚とした。
戦後、昭和三十一年(1956)観音堂裏手東北より移転。
  建碑 文化元年(1804)3月17日

 かめに花を挿こと古しへより聞え来れるを近き代には其花をさすにのろ有事と成り其流くさくさに分れぬ。
笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなへて弟子あまた有き。こその文月つごもり、齢八十餘八にてみまかり給。浅草本然禅寺に葬ぬ。ことし3月17日、かの翁の親しき友垣に弟子の集りて、かめに花をさして手向つ。其花のなごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさのみ堂のうしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。彼弟子の中、平石氏乱雨翁え残されしほほに笠翁斉の名を残したれば人々共に計りて其事成ぬ其わきかいつけよとこはるるにいなひあへずして記つ。
  「文化元年七月千蔭」




◆檜前(ひのくま)の馬牧(うままき)

 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
 東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。





◆初代中村吉右衛門句碑




  「女房も 同じ氏子や 除夜詣」
               吉右衛門

建碑 昭和二十八年(1953)四月二十一日

 初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優  日本芸術院会員  文化勲章受賞
 明治十九年(1886)三月二十四日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大成し 大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった
 高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ 初め秀山と号したが 後に吉右衛門の名前を用いた
 妻千代もまた浅草の生まれ この句の由緒である 昭和十四年(1939)冬の作 この碑は自詠自筆である
 実名  波野辰次郎
昭和二十九年(1954)九月五日没 享年六十八



◆古扇納め箱・初代花柳寿輔句碑



古扇 納め箱

わたくし達日本舞踊を志す者にとりまして 扇は欠くことの出来ない品でございます
使い古された扇はどうぞこの箱に納めください 毎年四月八日に祈祷の上扇に感謝のご供養を致します。




「雷は 田町をよけて 鳴りわたる」

初代 花柳壽輔 略傳
<出生> 文化4年2月19日、芝・新明にて出生

<6才> 文政9年、四世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。

<8才> 文政11年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。

<19才> 天保10年(1839)、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振袖師の第一歩を踏み出す。

<25才> 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なるの二字を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。爾後、七世市川団十郎嘉永2年(1849)、当時市川海老藏を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」 「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃られる。

<83才> 明治36年(1903)1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終わる。




◆石橋(しゃっきょう)




 現存する都内最古とされるこの石橋は、元和四年(1618)戦争時に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫(ふりひめ)の婿、紀伊国若山藩士浅野長最(ながあきら)(広島浅野家藩祖)である。
 この石橋は昭和二十三年、文部省により重要美術品に認定されている。






◆三尊名号供養塔




 三尊名号とは、塔正面に知まれた「南無阿弥陀仏、向かって右の「観世音菩薩」、向かつて左の「大勢至(だいせいし)菩薩」の阿弥陀三尊の名に由来する。阿弥陀さまは西方極楽浄土にて、往生者を迎えに来て(来迎(らいごう))くださることから多くの信仰を集め、浅草寺にも影向堂内、本堂西側、境内各所にお祀りされ我々を見守ってくださっている。
 この塔は、文政十年(1827)に江戸扉風坂下(現在の上野)の鹿島屋弥兵衛が発願した。ご先祖やさまざまな方々の菩提を弔うために奉納した旨の銘文が刻まれており、江戸町人の阿弥院さまを慕う敬虔な心が感じられる。



◆西仏板碑




 建立者の西仏(さいぶつ)については明らかではないが、この板碑(いたび)は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。
 上部が破損しているが、製作時には3m近くあったものと思われる。寛保2年(1742)暴風雨によって倒れ破損、文化十一年(1814)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。
 現存の板碑の大きさは高さ217.9cm、幅48.0cm、厚さ4.7cm。
 中世の信仰を知るうえで貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。





◆影向堂



 影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成六年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕千二百年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さま方「影向衆」をおまつりしているお堂である。
 堂内には、中央に聖観世音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊さま八体がおまつりされている。
 お堂の上、棟飾りには、火伏せの咒(まじな)いとされる金箔押しの鴟尾(しび)を置く。鳴尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成六年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。



六地蔵石灯籠




 この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治二三年(1890)に現在地に移転されたものです。高さ約二三五センチメートル余り、龕部(がんぶ)六面に地蔵を彫りつけてあります。石燈籠と呼ばれていますが、「火袋(灯明部)」はありません。
詳細は不明ですが、伝承では久安二年(1146)、久安六年(1170)あるいは応安元年(1368)建立ともいわれます。
現在では風化や火災の影響により、竿石に刻まれた文字などの判読は困難です。
 多くの文献に取り上げられている燈籠ですが、「江戸名所図会」などでもすでに印
刻の判読が困難であったようです。そのため、都内でも古い時代の製作のものと考え
られます。



◆銅造観音菩薩坐像



 本像は銅製、鋳造、鍵金で、大きさは総高が169.5cm、像高は99.5cmである。
 本俊は享保五年(1720)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身で諸国を遊行した廻国聖(かいこくひじり)、考山義堂(こうざんぎどう)が発願し、神田の鋳物師、小沼播磨守藤原長政が制作した。なお造立に際しては、近在の人々はもちろん、遠隔地からも多くの寄進を受け、その寄進者名が刻まれた。
 また本像の蓮華座は、元禄十五年(1702)造立の阿弥陀三尊像の脇侍(勢至菩薩)のものとして、小伝馬町三丁目の鋳物師、宇田川善兵衛が制作したものであるが、後に本像の蓮華座へ転用された(勢至菩薩像は失われている)。
 本観音菩薩生像を制作した小沼播磨守藤原長政は、江戸時代前期に活躍した鋳物師であるが作例は少なく、本像は長政の作例として新たに確認されたものである。
 江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつであり、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品である。また、像や台座に知まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料である。
 平成三十五年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。



仏頂尊勝陀羅尼碑



 『仏頂学勝陀羅尼』とは、唱える人に息災延命などのご利益を授けるとされる、古くから信春されてきた尊いお経である。碑の正面上部には「仏頂尊勝陀羅尼碑」と題字が、その下に梵字で陀羅尼が刻まれている。背面には漢字で陀羅尼の功徳について、末尾には造立年代である元治元年(1864)と製作者の名を見ることができる。
 この弾を奉納した海如(1837~73)は、奈良の長谷寺などで修行した真言宗の僧侶である。碑の背面に「浅草大悲閣の下に建てた」という旨が記され、当時天台宗であった浅草寺に碑を建立した経緯は不明であるが、当寺が宗派を超えて信仰されていたことを物語る。



◆金龍権現




 寺伝の緑起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。
 このことに因み、現在、三月十八日と十月十八日の年二回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の舞」が奉演されている。



◆九頭龍権現




 龍神さまは、仏教をお守りし、雨を操り、われわれに五殻豊穣や福徳を授けてくださる。
 この九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和三十三年の本堂再建にあたって、その成就を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽監安穏の守護神である。



◆一言不動尊




 怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわれの逃いの心を打ち切ってくださる仏さま。
 この一言不動尊は、何か願い事を一つに限って祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
享保十年(一七二五)造立。



◆橋本薬師堂




 当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安二年(1649)3代将軍徳川家光観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成六年(1994)、現在の場所に移転した。
 現在の建物は、桁行三間(約5.35メートル)、梁間三間(約5.10メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来十二神将像が安置されている。



淡島堂




 淡島堂は、元禄年間(1688~1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勘請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
 淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。






◆写経供養塔






◆胎内くぐりの灯籠




 この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。
 お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。
 造立年代は不明。



◆天水桶




 太平洋戦争が激しくなってきた、昭和十八年(1943)十一月十八日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音さまをお厨子(ずし)ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
 戦後の昭和二十二年(1947)三月七日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
明和七年(1770)造立。



◆針供養之塔




 この針供養之塔は、大東京和服裁縫教師会が五十周年の記念事業として発願し、全国和
裁団体連合会の御協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和五十七年
十月十七日に建立されました。
 省みますれば昭和十年二月八日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古来
の伝承に伴い浅草寺淡島様の御宝前で、供養の法会を営ませて頂いてより、次第に同じ
志の方々が増え都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇(ねんご)ろにご供養なさる方々が、年々多くなりつつありますことは報恩の美風を普(あまね)く世に伝へるためにも誠に有難く喜びに堪へません。




浅草寺六角堂




 六角堂は『浅草寺誌』(文化十年編)に元和四年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。
 木造で単層の六角造り瓦(かわら)ぶき形式で、建物中央の直径は1.82mあり、一面の柱真々は0.91mである。
 建物の基礎は、六角形状に廻(まわ)した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みをした1.5m余りの井戸上の穴が掘られている。
 六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
 もとは東方21.8mの場所{現・影向堂(ようごうどう)の南基壇上に元位置の表示あり}に建っていたが、平成六年(1994)十月境内整備のためにここに移された。
※東京都文化財保護条例(昭和五十一年(1976)三月三十一日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。



 六角堂のご本尊。
 地蔵菩薩さまは、慈悲のお心で、この娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもお
もむき、衆生を救われる仏さま。
 特にこの日限地蔵尊は、何かのお願い事に対し、日数を定めて祈願すれば、古
来より霊験があるとされる。
 造立年代は不明。木造。




◆三峯社





◆銭塚地蔵堂




 昭和三十九年に再建されたこのお堂には、石造の「六地蔵尊」が安置されており、そ
の下に「寛永通宝」が埋められているといわれることから「銭塚」の名がある。
 江戸時代、摂州有馬郡に山口なる者がおり、その妻がある日、庭先で寛永通宝が沢
山入った壺を掘り当てた。だがこれに頼って働かずにいては、家は滅びてしまうと考
え、誰にもいわず再び土中に埋め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊を祀ったという。
 お堂のご本尊は、そのご分身を勧請したもので、商売繁昌のご利益があるといわれ
る。
 毎月「四の日」と正・五・九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香と
ローソクをお供えする。特に塩をお供えするので「塩なめ地蔵」の名もある。




工事中だった。


◆九代目市川団十郎「暫」の像




 大正8年(1919年) 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者 新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)11月30日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 40余年を経てまいりました
 この度 12代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 11代目並びに12代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります
 こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません



◆案内図など





 浅草寺と浅草
浅草寺縁起」によると、推古天皇36年(628)に檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が
隅田川で漁澇中、一体の仏像を投網の中に発見した。
それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。
これが浅草寺の草創である。








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