2019/07/18 02 久我山散歩 04 荻窪川南共栄会 商店街/与謝野公園/ケア24 南荻窪/神明天祖神社/大宮前公園/天狗湯

やっぱり西荻窪駅に向かって北に進む。




荻窪川南共栄会 商店街






◆与謝野公園



 かつてこの地には与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が、晩年を過ごした家がありました。二人は明治から昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍しました。
 ※明治三十八年に鉄幹の雅号を廃し、この年より本名の寛を名のりました。
 敷地に向かって左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続きました。
 玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カ工デ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなとたくきんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどでした。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、二階の窓からは、地面が見えないほどでした。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからです。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲きました。敷地内には、遙青書屋(ようせいしょおく)、采花荘(さいかそう)、冬柏亭(とうはくてい)の三つの建物があり、昭和十年に寛、昭和十七年に晶子が死去した後も数施内には遙青書屋が、昭和五十五年頃まで残っていました。その後昭和五十七年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公圏」として開園しました。
 平成十九年十一月には念願でありました晶子の「歌の作りやう」の碑が地元の荻窪川南共栄会商店街により建てられました。さらに隣地の空き地を取得し、与謝野夫妻ゆかりの地として再整備してほしいという強いご要望があり、長ききにわたる構想と地域の皆様の熱い思いを受けてこの度名称変更をし、晶子没後七十年の節目の年にに「与謝野公園」として生まれ変わりました。当時の建物や庭を再現したものではありませんが、与謝野邸の庭を訪問するような趣向として、入口には門柱を立て玄関へと続く連路を造りました。庭には夫妻が好んだ樹木を植栽し二人が詠んだ歌碑などを建立しました。これら様々なものから住時の雰囲気を味わっていただけることと思います。ゆっくりと与謝野邸への思いをはせてください。
 
 公園整備にあたりましては、地域の皆様や与謝野夫妻のご親族、関係者の皆様のご理解とご協力のもと、実現することができました。歌碑作成にあたりましては、松平盟子さん(歌人)、萩原茂さん平出洸さん各氏に何万種ともいわれる二人の歌から、時代を追って恋、夫婦、子供、家のことなど、終焉の地としてふさわしい歌を、選んでいただきました。ここに、厚く感謝申し上げます。




 大正十二年の関東大震災を機に、大正十三年に与謝野夫妻はこの地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせました。
 昭和二年には、与兼野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居します。寛が、晴れた日には二階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「逢青(ようせい)書屋」と名づけました。この家はクリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が録色の鮮やかな二階建ての大きな洋館でした。一階は、広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のペヲンダと夫妻の部屋、ニ階には、日本座敷が二間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようでず。そして屋上には、「鶯?台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台がありました。鶯(うぐいす)のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺め見るという意味もありました。
 昭和四年には、晶子五十歳の賀のお祝いに第子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭(とうはくてい)」と名づけました。冬柏亭は六畳と三畳の二間からなり書斎や茶室として使用されました。「冬柏」とは、夫妻の好きだった「椿」を意味しています。現在、この「冬柏亭」は京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物です。





































歌碑がたくさんあった・・・。




◆ケア24 南荻窪

杉並区の施設。



◆神明天祖神社




 当社は旧上荻窪村字原に鎮座し、祭神は天照大御神です。
 荻窪村が中世に村をつくっていたことは文書や板碑によって知られ、正保年間(1644~1647)に上・下荻窪村に分かれたといわれています。
 当社の創建は詳ではありませんが、天正十二年(1584)の検地の際には、すでの小祠があったと伝えられており、それ以前と思われます。その後、この地域は徳川御三家の一つである紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷氏が社殿を興したといわれています。
 江戸時代の当社は神明社と呼ばれ、付近一帯が神明と呼ばれるのは、この社名に由来するものです。また、かつて字伊勢前といわれたのも、当社の祭神が伊勢神宮と同一であることによるものです。
 当社の東側一帯は、昔周囲に桜の木を植えた馬場があり、桜の馬場と呼ばれ、昭和初年まで名残りの桜の木があったといわれています。
 明治維新後、当社は荻窪八幡神社の境外攝社となり、明治十五年には社殿を修築しています。ついで近年に至り、社殿・神楽殿・手水舎などの改修築、社号標・燈篭・鳥居の奉納、参道の整備がおこなわれ、今日の境内の景観をうるに至りました。



御嶽神社



楽殿







◆大宮前公園




◆天狗湯

銭湯♪




続く。