2019/08/01 永福町散歩 03 和泉熊野神社/和泉貴船神社/大宮八幡宮/松ノ木遺跡/高射砲陣地跡地

北上!
緑地が多くなるが暑かった・・・。



◆和泉熊野神社




 当社は旧和泉村の鎮守で、現在も「和泉の鎮守さま」として、人々に親しまれています。祭神は天御中主命伊弉諾命・伊弉冉命で、明治7年には村社となっています。
社伝によれば、文永四年(1267)に紀州熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安七年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大いに社殿を修めたと伝えられています。
 江戸時代には寛永十六年(1639)と元禄九年(1696)の両度にわたって社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久三年(1863)の造営で、明治4年に修覆したものです。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「除地300坪、村の北の方にあり、屋二間四方、本社五尺四方、拝殿2間半に二間、社前に木の鳥居を立」と述べています。
当社の境内からはかって縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかります。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえています。
 例祭日は9月第2日曜日です。



境内社

詳細がわからなかった。




稲荷神社



楽殿



和泉熊野神社クロマツ






 社殿横の本クロマツは、幹周(目通り)3.1m、根本周囲6.3m、樹高(目測)は17mあり、樹齢は250年以上と推定されます。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で葉は大きく、樹皮が黒褐色を帯びています。近年クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきています。このクロマツには、徳川家定お手植との伝承があり、御神木として古くから氏子の人々によって、手厚い保護を受け都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。









◆和泉貴船神社




 当社は和泉熊野神社の境外末社です。「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社の姿を「除地、一段、村の北の方にあり、小祠を東向に立つ」と記しています
 創建は社伝では文永年間(1264?75)ともいわれますが、詳細は明らかではありません。
 祭神は高?神(たかおかみのかみ)です。この神は山・谷あるいは川にすむ雨水をつかさどる竜神で、雨乞・止雨に霊力があるといわれています。当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた、山城国(現京都府)の貴船神社の祭神を勧請したものと伝えられています。
 境内の池は”御手洗の小池”と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇することがなく、村民の雨乞を行う場所であり、その豊富な湧水から”和泉”の地名は、この池に由来するともいわれています。また水質も大変良かったようで、”豊多摩神社誌”は「里人は往昔此井より清酒を湧出せしなど云伝ふ」との伝説を伝えています。この伝説は今日も語りつがれています。しかし、この湧水も神田川の改修工事や周辺の宅地化にともない、昭和四十年頃以後は水が涸れてしまいました。
 当社は大正時代においても「木造茅葺、間口四尺、奥行三尺」という小祠にすぎませんでしたが、古くから和泉地域の人々の厚い信仰に支えられて今日に至っています。
 なお、現在の神明造りの本殿は昭和三十六年の造営で、落成を記念した石碑も建てられています。
 祭礼は五月五日です。





水はなかった。。。



大宮八幡宮

こちらは何度かお参りしている。
2019/04/04 善福寺川散歩 02 大宮八幡宮/馬頭観音/鞍掛の松/大宮八幡宮参詣道/庚申塔/済美山運動広場/杉並区立郷土博物館 - ovanの社会科見学






◆松ノ木遺跡




古墳時代の住居と生活

この復元住居は、方南峰遺跡で発掘された古墳時代後期(6世紀頃)の住居址を推定復元したもので、武蔵野台地における典型的な庶民の住居の形をしています。1辺が約5m、床まで約50㎝方形に掘られ、屋根は住居内にある4本の柱で支えられています。北側には粘土で「カマド」が作られ、その東側には貯蔵穴(食物貯蔵庫)があり、古墳時代の特徴を示しています。
ウインドー前のボタンを押すと、開設が流れます。




ガラス張りになっている個所があって覗いてみたが、何が何だかよくわからない。




もう一つ発掘した跡?があった。



◆高射砲陣地跡地

google mapの位置。




公園のグラウンドの中のようだが、説明板など何も見当たらなかった。
wikiには、
『現在の印刷局久我山運動場・野球A面のライト線あたり、東京都杉並区久我山2-18-18』
とあった。

さらに
『『15糎(cm)』と表記されているが実際の口径は149.1mmであった。砲弾の長さは薬莢を含め約180センチメートル近くはあったという。砲弾には機関砲弾が2,000発も装填され、高度20,000メートルで炸裂すると、200メートル四方の敵機を撃墜させる威力があった。』
かなり威力の高いものであったとのこと。



これより最寄りのバス停まで歩き高円寺までバス移動。
やはりこの炎天下での散歩はきついものがある。