2019/08/12 杉並成田散歩 03 庚申塔/豊受稲荷大明神/子ども子育てプラザ成田西/宝昌寺/三年坂/善福寺川緑地(第二小前広場)/尾崎橋

五日市街道沿いに東へ進む。



庚申塔






◆豊受稲荷大明神








◆子ども子育てプラザ成田西





◆宝昌寺




 白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像(しゃかむににょらいざぞう)です。
 当寺は、文禄三年(1594)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。
 江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那(だんな)寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社須賀神社白山神社の管理をする別当寺でもありました。
 安政三年(1856)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正十年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか、区内でも最古といわれる舟型地蔵尊庚申塔などの文化財が所蔵されています。
 境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して、愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく、大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます。





◆三年坂

杉並区で坂の名前があるのはあまりない気がする・・・。






 この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来は、はっきりしていません。
 三年坂と呼ばれる坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり、坂名の由来についてはさまざまに言われているようです。
 東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は、旧東京市内に6か所ほどあるようです。いずれも、地域の境界にあり、昔は急坂で、寺院や墓地がそばにあったり、または、寺院から見えるところにある坂ばかりです。
 この坂で転んだものは、3年きり生きられないとか、3年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。
 当地のこの坂も、ほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては、尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。
 明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い、気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。
 そこで、人々は坂の行き来に用心が必要だということから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。
 通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。



善福寺川緑地(第二小前広場)






◆尾崎橋










 上流に向って左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おさき」とは、突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約8,000年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義 が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞(ずい)雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
 このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次の様に記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」



続く。