2019/08/27 上高井戸散歩 07 庚申橋歩道橋/身代り不動尊/下高井戸西公園/塚山公園/塚山橋/宮ノ下児童遊園/三井の森公園

今度はほぼ中央高速沿いに東へ進む。



◆庚申橋歩道橋

こちらも高井戸インター付近。









◆身代り不動尊

由緒などがかかれているものがなかった。
ものすごく広い敷地でビックリした。






◆下高井戸西公園






塚山公園











縄文時代中期の復元住宅








 この復元竪穴住居は、昭和48年に発掘された1号住居跡をモデルに、不燃化剤で建てたものです。
 この様式は、武蔵野台地におけるこの時期の典型的なもので、住居床上の中央部や奥に「石囲い」の炉を掘り込み、住居の四隅がやや丸いことから「隅丸方形(すみまるほうけい)」型と呼ばれています。
 縄文時代中期の住居址を見てみると、前葉から中葉にかけての住居形態は円形を基本としていますが、後葉になると次第に方形へと変化していきます。
 このような住居形態の変化は、気候の変化に関係があるといわれていますが、この程度の大きさ・空間の住居であれば、日常的な道具(土器や狩猟道具等)を収納しても、親子3人から4人でも、充分に生活できたと考えられています。




 ここ塚山遺跡で見つかった集落の跡は、今から約四千年前くらい前の縄文時代中頃のものです。
 この時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか。
 この頃は、長い縄文時代の中でも、徐々に涼しくなって、人々にとっては最も生活がしやすく活気にあふれていた時期です。
 そのため杉並区をはじめ、全国いたるところで大きな集落がつくられています。普通集落は、多くても十数軒でつくられ、30人から40人しか住んでいませんでした。
 それはこれくらいの人々が暮らしていくための食べ物を取ったり替えたりすることしかできなかったからです。
 そして人々はここに復元したような家に住んでいました。それは寝るための他に雨や雪をしのぐところであったり、食事や家族の語らいの場として、今よりも限られた使われ方をしていました。
 この時代には縄文土器と呼ばれる技術的に優れた美しい縄目模様の土器がつくられています。
 それには、食べ物を煮たり蓄えたりする土器や、食べ物をもるための土器などいろいろな使い道に合わせてものがありました。
 また、土器とともに大切な道具である石器もつくられました。石器の中には、穴を掘ったり木を切ったりする石斧、獲物をとるための矢じりや木の実などをすりつぶす石皿などがありました。
 このような道具を使って人々は日の出とともに外に出て、水辺に集まる動物を獲ったり、川で漁をしたり、また林で木の実をとったりして食べ物を得ていました。
そして、仕事の合い間には、自分たちの身を飾るペンダントや首飾りなどを作っておしゃれをしたり、年に何回かの豊作や豊漁を願うお祭りをしたりして結構楽しく暮していたのかもしれません。




下高井戸塚山遺跡

 本遺跡は塚山公園の北側に突出する台地部分に広がる、縄文時代中期前半から中頃(約4500年~3500年前)にかけての集落遺跡で、数度の学術調査により出土した多くの土器や石器とともに、全国的にも数少ない環状集落跡として知られています。
遺跡は中央部分に広場を形成し、縁辺部周辺に住居を構築する景観的特徴をもつもので、現在の公園の下には広場や200軒を超す竪穴住居跡がそのまま大切に保存されています。その全体像は都内でも屈指の大規模集落と推定されています。




縄文時代中期の住居跡(複製)





 この住居跡は、昭和60年度に実施された調査で発掘されたもので、長軸4.5m、短軸4m、深さ30㎝で楕円形型のやや小型の竪穴住居跡です。
 住居の床には壁に沿って大きな主柱の穴があり、そのほか床や住居外部にも小さな穴が多数掘られています。また、ほぼ中央には炉がつくられ少量の焼けた土も見つかっています。






塚山遺跡復原景観図







◆塚山橋











◆宮ノ下児童遊園




◆三井の森公園









崖線の緑と生き物

 崖線ってなに?
 川に沿って形成された階段状の地形を段丘と呼びます。
段丘の急な斜面が線上に連なっている場所を崖線と言います。

 正面に見える林は、神田川が削ってできた崖線のみどりです。柏の宮公園や塚山公園の林など、神田川沿いには多くの崖線の緑のつながりが見られます。これらの林には、雑木林を構成する、イヌシデ、クヌギアカマツ、暗い林の中でも成長するシラカシなどの木が生えてます。
 かつて釣り堀の一部として利用された正面の池は、動物のすみかや休憩所となり、ヒメガマなどの水辺に生える植物もあります。雑木林の緑と水辺は、生き物たちが豊かに生きる環境を生み出しています。






続く。