2019/09/23 02 祖師谷散歩 05 宮下橋/上祖師谷神明社/庚申塔/檀徒道/阿弥陀堂/稲荷神社/給田六所神社

やっぱりまだまだ北上する。
ほぼ仙川沿い。



◆宮下橋








◆上祖師谷神明社





上祖師谷之沿革

 祖師谷という名の由来は諸説あるが、むかし釣鐘池北側の高台に日蓮宗の池福寺という寺があり、そこに祖師堂があったのが地名の由来となっている。それまで一つだった祖師谷村が江戸元禄十年(1697)に上、下の祖師谷村に分かれた。
 江戸幕府によって胃変遷された新編武蔵国風土記稿 文政十一年刊(1828)には、「上祖師谷村ハ 群ノ(多摩郡)東南ニアリ。 江戸日本橋ヨリハ五里ノ行程ナリ。・・・・中略・・・村内ニ 十丁余 カカレル一条ノ街道アリ。 甲州ノ裏道ト伝。・・・・中略・・・・民戸六十七軒所々散住セリ(人口三百二十三人)」とあるこの一条の街道とは、神明社下の(旧 青山道 又は滝坂道)現 仙川通りの事である。甲州街道滝坂より青山まで至る重要な街道であった。
 又、同風土記稿には「用水ハ上仙川村ヨリ来レル流ヲモテ田間ニ沃ゲリ」とある。
 この用水とは現 仙川の事である。大川と呼ばれたこの川は、三鷹市勝淵神社前の丸池を水源とした河出、この川の水を利用して江戸時代より田圃が作られていた。又、水車も二ヵ所あった。
 神明社の創建は不祥であるが、前述の風土記稿には「神明宮 村ノ中程ニアリ、ココノ鎮守ナリ、前ニ、十五級ノ石段アリ」とかいてある境内には安永六年(1777)の太鼓、享和元年(1801)の石灯籠、文政年間の幟(のぼり)、文久二年(1862)の手洗石等が現存している。
  



境内社







楽殿

中で踊りの練習してた。



鳥居



世田谷百景

 浅葱色をした社殿は、昭和41年に建てられましたが、江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で、現在も交通量は多く、時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。



参道




庚申塔






◆檀徒道




 大道(滝坂道)から、上祖師谷阿弥陀堂のある共同墓地に至る道で、寺の檀家、檀徒が使うのでこの名の由来がある。
 徳富芦花の「みみずのたわごと」次郎桜にその記述がある。

「青山街道に出て鼻缼地蔵の道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗い墓地に入った。」



阿弥陀堂






◆稲荷神社

周囲をぐるっと見てみたが、入れるところがない。




望遠で撮ってみた。




◆給田六所神社




創立年代、由来など明らかでないが、天文年間(1532〜1554)、府中六所宮(現大国魂神社)の御分霊を勧請して奉斎したものと伝えられている。
明治六年村社に列し同二十四年社殿を改築、同四十二年給田地内にあった神明社を合祀した。祭神は大国魂大神、天照皇大神ほか六柱、現在の社殿は旧地頭三浦義方奉納の御神号額、宍戸平重郎奉納の御太刀一口を蔵し、例祭日は毎年十月六日である。




稲荷神社







楽殿




鳥居






続く。