北沢川(暗渠)上の道をひたすら歩く。
◆牛魂碑(四谷軒牧場跡)
調べてみると四谷にあった牧場が戦後こちらに移ってきたとのこと。
碑の後ろに由来ノ記があるが、判読が・・・・。
あまり情報が無く、信頼できる情報がないので、ご存知の方は教えてください。
(o*。_。)oペコッ
◆桜上水三丁目広場
この奥で暗渠は終わってる?
少なくとも緑道ではなくなっている。
北沢川は、江戸時代初期に玉川上水から分水して用水として整備されました。それ以前は、現在の松沢病院構内の窪地などの湧水や周辺の雨水が集まった細流で、水量も豊かとはいえなかったようです。
隣の広場にある弁財天は、上北沢村の旧家で、村の名主をつとめた鈴木左内家が祀っていたことから、左内弁財天といわれています。左内家の祖先は、北沢用水を開くのに尽力したと伝えられています。
この左内弁財天がいつ頃から紀られるようになったのかはわかりません。このあたりには池かあり、そのほとりに左内弁財天は祀られていました。農業が生活の中心であった江戸時代には、水は何よりも大切なものでした。そこで、人々は用水や川、池などの水のほとりに、水神や弁財天を祀り、豊かな水の恵みを祈りました。左内弁財天もそのひとつです。
この弁財天にまつわるものとして、様々な説話が伝えられています。そのひとつに次のような話があります。
鈴木左内家の娘は周囲が羨むほどの美しい娘でした。ある日この娘が井の頭の池に遊びにでかけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初め
ました。電神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするようになりました。その若者が自分の正体は電神であることを
娘に告げたところ、娘は始めは驚いたものの、その若者に嫁ぐことを決心しました。娘は、家に痛った後、病にかかりました。父母は心配
しましたが、日毎に容体が態化するので、ついに諦めて娘を井の顕池に連れていきました。娘は泣きなから祈ったあと、池に身を投けまし
た。すると水面に巨大な蛇が現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るようになったといいます。
北沢川や弁天池では、ナマズ・フナ・ドジョウなどか獲れ、夏には蛍も見られたといいます。しかし左内弁財天の詞も戦災で焼矢したといわれ、都市化が進むとともに、北沢川は汚れ、水量も減り、その周辺の様子も変わってしまいました。
昭和40年代から、北沢川は下氷道として順次、暗渠とされていきました。そして、昭和54年には弁天池のあった部分も完全に埋め立てられることになりました。この時、この地に人々の暮らしを支えた川が流れ、その川を大切にしてきた人々によって弁財天か記られていたことを伝えていきたい、という地元と人々の気持ちで、左内弁財夫が再建されました。また池があった弁財天の周囲も広場として開放されました。かつて北沢川や弁天池で子ども達が遊んだ昔か懐かしまれます。
◆桜上水3丁目広場
◆勝利八幡神社
判読不能。。。。
平安時代 万寿三年(1026)京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮より勧請し創建された神社。上北沢四丁目に鎮座する山谷稲荷神社ご神体を明治四十年九月に合祀し奉斎しています。天明八年(1788)に再建された社殿は平成四年十二月に世田谷区指定有形文化財に指定されました。現在の社殿は昭和四十三年十月に再建落成
八幡さまは母の神功(じんぐう)皇后さまと共に、大陸交渉に伴って、大陸文化を我が国に輸入し古代にあって日本の文化振興をはかられた御神徳が仰がれている。また母が子供を抱きかかへ、慈愛を以てこれをはぐくみ育てる大愛を本願とされている「母子神」としての信仰も盛んであった。平安時代に源氏の氏神とされ、さらに室町、江戸時代を通じて北の守護神(武神)とされた。こうして八幅さまは一般民衆の根強い信仰をあつめ九州大分の宇佐八幅宮を総本宮として全国に約二万五十社が祭られている。
続く。