2019/10/01 01 高幡不動散歩 02 高幡不動

コチラはかなり大きなお不動様。
WEBで調べたら彼岸花の隠れた名所だということだったので訪れてみた。



不動堂



高幡不動尊金剛寺の歴史と文化財

 真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺 は古来日本一と伝えられる木彫の丈六不動三尊像をご安置する寺で、高幡不動尊と呼ばれて親しまれている。
 古文書等に大宝以前の草創、行基菩薩の開基と記されているが、平安時代初期に慈覚大師 (円仁 )が清和天皇 の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立したのに始まる。
 後、建武二年の大風によって山中の堂宇が倒壊し、時の住僧儀海上人が麓に移建したのが現在の不動堂で、室町時代再建の仁王門も 関東有数の古い建築である。
 鎌倉時代以降の高幡不動尊は十院不動堂ともよばれ、真言宗武蔵片の名だたる談議所(学問所)であった。
 江戸時代安永八年の大火で大日堂を始め多くの伽藍と重宝を焼失したが、尚、約二万点の古文化財を蔵している。
 高幡不動尊新選組の副長、土方歳三菩提寺で境内地は三万坪余り、史蹟・文学碑も多く桜(300本)あじさい(7500株)もみじ(古木350本・若木1000本)の名所でもある。山内に八十八ヶ所の弘法大師像がまつられ約1時間で巡拝できる。





五重塔




旗かけの松




(左)玉南鉄道碑/(中)土方歳三像/(右)近藤勇土方歳三顕彰碑



玉南電気鉄道の記念碑

 京王線は大正二年に笹塚・調布間が開通、同年からは新宿・府中間に直通電車が運転されました。 さらに府中・八王子間の建設という地元の強い要望がありましたが、京王電気軌道は揺らん期の苦闘時代にあったため大正十一年別会社「玉南電気鉄道株式会社」を設立、新線の建設に着手しました。
 こうして大正十四年三月二十四日に府中・八王子間が開通、二十六日には高幡不動駅構内で開通式が挙行されました。 その後、大正十五年十二月京王電気軌道と合併し、軌道幅も統一して新宿・八王子間の直通運転が開始されるに至ったのです。
 この碑は、昭和二年十月、玉南電気鉄道創業当時のいきさつを記して建立されたものです。




土方歳三

 幕末新撰組副長土方歳三義豊は土方義淳の第四子として日野市石田に生まれる。
生来聡明多感にして剣の道を天然理心流近藤邦武先生に学ぶ。
文久3年の幕府の求めに応じて浪士組に参加。将軍家茂公に従って上洛す。
京都守護職松平容保公の預かりとなり、更めて近藤勇を頭に新撰組を結成し、自らは副長として市中見廻り警固につとめ、池田屋事件禁門の変等に勇名を轟かす。
然し激動の時代こと志と違って賊軍の汚名を被せられ、鳥羽伏見の戦いの後徳川慶喜公に従って、海路江戸に戻り、以後勝沼・宇都宮・会津と転戦し、明治2年5月11日、函館戦争のさなかに戦死す。
多摩の風土に育まれ、義に生き、節に殉じた歳三の35年の生涯は、没後百数十年を経た今も、男の美学として広く語り継がれている。
先に明治9年高幡山第29世賢雅和上は、境内に近藤・土方両雄の碑を建ててその殉節を顕彰するも、更に此の度東京日野ロータリークラブ会員一同は、クラブ創立30周年記念事業として、弁天池々畔に出陣姿の土方歳三像を建立し、その事績を永く後世に伝えんとするものである、



近藤勇土方歳三顕彰碑

 この碑は、多摩地域に生まれ、幕末の新選組局長及び副長として活躍した近藤勇土方歳三 の事績を記したもので、文の撰者は元仙台藩儒者大槻磐渓、書は元幕府典医頭・医学所所長の松本順、篆額は元京都守護職松平容保 の書である。松本は、はじめ徳川慶喜 に篆額の書を依頼したが、慶喜はただ涙を流すばかりで返事がなかったため、松平容保に依頼した経緯が知られる。
 明治七年(1874)、明治政府は戊辰戦争 で敵対して戦死した者の霊を祀ることを許可し、これに伴い、各地に追悼・慰霊・顕彰のモニュメントが建立された。
 多摩地区でも同九年、金剛寺住職賢雅和上が、佐藤俊正・糟谷良循・本田定年・橋本政直・近藤勇五郎・小島為政ら近藤・土方の親族及び天然理心流の後援者たちとはかり、近藤・土方両雄の殉節を顕彰する碑の建立準備を整えた。同十五年に建立許可が下りたが、豪農による自由民権運動の高まりの中で建立は延引し、構想から十年以上を経た同二十一年七月、ようやく高幡山金剛寺境内に竣工した。






弁天堂






有山菫糸の句碑



石田波郷句碑



松尾芭蕉句碑




高橋悦男句碑




山内経之(やまのうちつねゆき)供養塔



山内経之供養塔と像内文書

 当山に南北朝期 の貴重な像内文書を残した土渕郷(つちぶじごう)(日野市日野本町及び日野市日野とその周辺地域)の小領主山内経之は、北朝方の高師冬(こうのもろふゆ)の北畠親房(きたばたけちかふさ)攻め(常陸合戦)に参加し、下総国 の駒城合戦で戦死した。
 像内文書 は、経之が下総へ向う途中やさまざまな合戦のさ中より留守家族や高幡山の僧しゅうしんなどに届けた書状が中心で、戦費調達の苦しさや所領経営の破綻・戦闘の実態・寺院との関係など中世武士の生の生活記録となっており、六十九枚の文書中五十枚は経之の筆であることが確認されている。
 これらの文書は、経之の遺族や関係者が戦死した経之ゆかりの書状の背面に不動明王や大黒天の印仏 をして、当時建武 二年の大風の被害を受け修理中であった不動明王の頭部に納めて故人の冥福を祈ったものである。
 文書の存在は昭和初年に確認されたものの鼠の被害等損耗が激しく解読不能と見られていたが、昭和六十年からの文化財綜合調査でその重要性が指摘され、その後日野市教育委員会の手で数年をかけて全容が解明され、全国に類例のない中世武士の貴重な文書として重要文化財に指定された。
 文書を残した山内経之一族の消息はその後当地方から絶えており判然としないが、当山では此の度中世の九輪塔 (中島久栄氏寄贈)を山内経之供養塔として山裾に移設し、その菩提を弔うと共に、経之の事績を末永く後世に伝えんとするものである。



 この塔は小平市学園東町に居を構えていた中島 渉・久栄夫妻宅の庭園にあった中世九輪塔です。平成二十三年に当山檀徒佐藤収一氏のお骨折で、ご遺族の中島久栄様から当山に奉納されました。
 元は岡山出身の実業家山本唯三郎邸にあったと伝えられています。唯三郎は同志社新島襄の胸像を寄進するなどさまざまな社会
貢献をした方ですが、その反面虎大尽と呼ばれてその豪遊ぶりでも有名です。





加々美鏡水句碑




山崎千枝子句碑




松本陽平句碑




愛宕山クロマツ




 この先にはかつて愛宕神社が祀られていたので愛宕山と呼ばれている。標高120メートルの丘の東斜面から山頂にかけて残っている10数下部のクロマツの古木は、遠くからも良く見える。
 愛宕山にはかつて相当数の松が繁茂していたが、風害や病虫害により今日では大半が消滅してしまった。現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる。
 東南面の1株は目通りの幹が3.92mもあり、最も大きく、高さは約25mに達する。樹齢は360年以上と推定されている。



見晴らし台からの風景









見晴らし台はこの高幡城址があった場所。

不動ヶ丘一帯に中世高幡城が築かれました
頂上の広場は本丸のあとと伝えられています
麓には根小屋陣川戸等城址ゆかりの地名が残っています。



「藤蔵(とうぞう)・勝五郎(かつごろう)生まれ変わりゆかりの地」




 江戸時代の後半、文政五年(1822)十一月、中野村(八王子市)の小谷田勝五郎(八歳)は、自分の前世は程久保村(日野市)の藤蔵であると語りました。生まれ変わりの少年と大評判となった勝五郎は、「ほどくぼ小僧」と呼ばれるようになりました。
 須崎藤蔵は、文化二年(1805)に生まれ、同七年二月四日疱瘡のため六歳で亡くなった少年です。藤蔵の墓は、元は須崎家の山の墓地にありましたが、現在は高幡不動尊墓地にあり、藤蔵の生家があった場所には、現在も子孫の小宮豊家が住み、墓地や位牌などを守っています。
 文化十二年十月十日に生まれた勝五郎は、明治二年(1869)十二月四日、五十五歳で亡くなりました。墓は、永林寺(八王子市下柚木)もああります。
 勝五郎の生まれ変わりについては、中野村領主多門伝八郎(たかどでんぱちろう)の調査や、文人大名池田冠山(かんざん)・国学者平田篤胤(あつたね)の同時代の記録が残り、当時の状況を詳細に知ることができます。また、明治三十年(1897)には、小泉八雲が海外に紹介しています。
 日野市郷土資料館では、平成十八年(2006)より、市民参加の調査団を結成し、調査・研究・普及・啓蒙活動を展開してきました。
 勝五郎の生まれ変わり物語が、末永く語りつがれることを祈念し、多くの人々の浄財により、記念碑を建立しました。藤蔵の葉墓所も、お訪ねください。





藤五郎の前世 藤蔵の墓





 中野村(現・八王子市東中野)で生まれた小谷田藤五郎が八歳になった文政五年(1822)秋、自分の前世は程久保村(現・日野市程久保)の藤蔵であると語りました。藤五郎が話した事が本当であることがわかると、この噂は地元だけではなくいち早く江戸でも大評判になりました。
 藤五郎生まれ変わりの話を、当時の天名松平(池田)冠由や国学者平田篤胤が、勝五郎本人並びに家族から聞き書きし書物に著しました、平田篤胤が仁考天皇に自分の著書を献上したことにより、御所でも評判になったそうです。
 明治時代に小泉八雲’ラフかディオ・ハーン)が英文で西洋に紹介したことにより、」海外でも知られるようになりました。勝五郎生まれ変わりの物語は、現在も日本を含め多くの書物が存在します。
 藤蔵は疱瘡にかかり、文政七年(1810)二月四日に六歳で亡くまりました。お墓は家の近くの山に在りましたが、その場所も昭和四十年代に宅地造成された為、昭和四十七年に当地へ改葬されました。
 当時藤蔵の家は須崎性でしたが、幕末の頃に小宮彌平の次男鏡治郎が家督継承時に実家の小宮性を名乗り、以来代々小宮姓を名乗っています。











彼岸花















曼珠沙華植栽記念





大日堂



お鼻井戸




建武二年(1335年)八月四日夜の大嵐の為、不動堂が倒れた折不動尊像が落ちて鼻をついた所と伝えられている



にこにこ地蔵



鍵和田釉子句碑



聖天堂(しょうてんどう)




聖天さまは」歓喜天(かんぎてん)とも呼ばれ、像頭人身の男女二神が抱擁しているお姿。
夫婦圓満・恋愛成就の神として又事業繁栄・商売繁盛の神として信仰を集めています。


聖天堂山門





虚空蔵菩薩さま



 この菩薩のお知恵とお徳は大空のように広大ですので虚空菩薩と尊称され、宗祖弘法大使も開山興教大師も虚空蔵さまに深いお祈りを捧げ悟りを開かれたと伝えらえています。
 私たちに知恵と福寿を授けて下さる虚空蔵菩薩の信仰は全国的に広がっていますが、関西方面の十三祭りはとくに有名です。




大師堂



稲荷社






皆川盤水句碑




庚申塔



五部権現社




 金綱寺の境内鎮守として創立されたもので、寺伝によると、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請し、のちに稲荷、丹生、高野、青龍権現を合祀して五部権現と称するようになったと伝えられます。この五部権現社は、現存する棟札により、暦応’(1671)に再建された江戸時代前期の社殿として類例の少ない貴重な文化財です。建物の構造は、一間社流造、銅板葺、向拝付きで、大きさは桁行1.52m、梁間1.30mあります。木部全体に朱の漆が塗られ、彫り物の刻線には墨、さらには向拝蓑股には群青など鮮やかな彩色が施されています。社殿には、暦応三年(1340)三月二十八日造の銘があり、本地仏の乗迹神の名を刻し、国の重要美術品に認定されています。なお、五部権現社殿は奥殿建設工事に伴い、平成八年大日堂前に移設されました。



奥殿





上杉堂




交通安全祈願殿




山内八十八か所参拝コース
20191001 06 高幡不動 - ovanrei's fotolife
多いのでフォトアルバムでどうぞ。






続く。