2019/10/10 喜多見散歩 02 次大夫堀公園民家園

太夫堀とは六郷用水のこと。
1597年(慶長2年)徳川家康の命により、用水奉行・小泉次大夫が工事に着手。
彼の名前から次太夫堀と呼ばれる。



太夫堀公園には民家園があり、名主屋敷、民家2棟、表門、消防小屋などが復原展示されている。
普段の日はあまり人が居ないらしいが、今回はどこかの小学校の課外授業か何かで子供がたくさんいた。
のんびり見られなかったなあ。



旧谷岡家住宅表門








 旧谷岡家表門は平成2年に解体保管され、翌年、区指定有形文化財に指定されました。
 この表門は旧深沢村(現:深沢5丁目)の谷岡家にあった門で、長屋門形式をもつ木造寄棟造り茅葺きの建物です。規模は桁行6.7間(12.18m)、梁間2.0間(3.63m)です。
 この門は天保9 年(1838)に再建されたもので、復元考察により元々納屋と穀倉(こくぐら)別棟であったものを、この年に門をつけ長屋門としたことがわかりました。
 納屋を土間のドジ、穀倉を板床張りでクラと呼び、ドジには農具や大工道具を、クラには米などの穀物を入れて保管していました。
 谷岡家では明治以降2度主屋を焼失しており、第2次大戦の終了間際には空襲により焼出(やきだ)され、15年問をこの門の中で生活するという経験をしています。その時はこのドジにも床を張り、部屋とし、仏壇や神棚を置いていましたが、主屋の再建後は、再び納屋として使われました。
 今回の復元では、ドジは納屋として使用していた当時を、クラは画建当初の姿に再現しました。

ドジとクラ
 一般に農家の納屋は、農機具、脱殺の用具、筵(むしろ)など農作業に必要な道具を収納し、雨天の際には作業場ともなりました。一方、倉は板着で床が張られているため、保温、防湿の点では合理的な構造となっており、米や味噌の貯蔵に使用されていました。
 今回の展示では、ドジは鍬(くわ)や鋤(すき)などの耕起具(こうきぐ)や、くるり棒や箕(み)・篩(ふるい)・唐箕(とうみ)・石臼・千歯扱き(せんばこき)・万石(まんごく)どおしなどの脱穀・調整具。その他筵(むしろ)や桶など多目的に使われる農作業道具や、大工仕事で使われる諸道具を展示しています。
 またクラも同様に、殺物の保管をした倉として関連した道具を展示しています。









庚申塔




消防小屋と火の見櫓









世田谷の消防組
 江戸市中では火災が多発し、「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほどでした。特に明暦の大火(1657年)では市街地の大部分が焼け、死者も10万人以上にのぼったといわれています。このような火災への対策として、1718年(享保3)に町火消が制度化され、翌年には有名な「いろは48組」が編成されました。この町火消が明治になって消防組と改称されたのです。
 世田谷は農村であったため、火事といっても江戸市中のような大規模な災害には至らず、消防活動は村々で自治的におこなわれていたにすぎませんでした。明治初期から消防組が組織されはじめ、明治18年大蔵村の記録によると、当時の消防組は村内の17才から33才までの男子すべてを所属員とし、消防のほか村の親睦(しんぼく)などにも関与していたようです。その後明治27年(1894年)の「消防組規則」によって全国の統一がすすめら、世田谷でも世田谷消防組・駒沢消防組・玉川消防組・松沢消防組の4消防組が組織されました。その後消防組は昭和になってから警防団、第二次大戦後には消防団と名称を変え、今日に至っています。

明治から大正にかけての消防
 明治中頃の世田谷の消防組では、組頭(任期は1年から4年)が選ばれ、組頭の補佐役として副組頭がいました。各消防組は下部組織としての部が置かれ、それぞれ部長・小頭・組員がいました。組員は筒先・梯子・刺又(さすまた)・龍吐水(りゅうどすい)やポンプの水汲みの順に、体力や経験に応じて役割が決められていました。
 火災が発生すると組員達は消防半纏に身を包み、消防小屋(消防組員詰所)のある火の見櫓の下に集結し出動したといいます。消火には川や水田の引き水を利用しましたが、基本的には刺又や鳶口(とびくち)による破壊消防の方法がとられました。飛び火を防ぐため、藁ぶき屋根を濡れた筵(むしろ)で覆うという方法もとられました。
 また実際には不可能なことでしょうが、大正の初め頃までは、飛び火を防ぐために女性の腰巻きを屋根で振ったという話もよく聞くことができます。



水飲み場



鍛冶屋展小屋



藍展示小屋



土蔵の漆喰壁 行程見本



 この土壁見本は、平成29年度〜30年度にかけて開催した事業「民家の伝統技術左官の技術(土蔵の漆喰壁)」て製作したものです。この見本では、漆喰壁の下地となる「竹小舞」だけの壁と、土がどのように塗り重ねられていくのか工程が分かる面、そして漆喰壁に仕上がった壁の3面をつくり、漆喰壁がどのようにつくられていくのかがわかるようにしました。

①土拵え(2017年8月5日(土))
 壁の材料となる土作り
②下地づくり(2017年12月2日(土))
 壁土をつけるための下地づくり(竹小舞つくり)
③荒付け(荒打ち)(2017年12月9日(土))
 土つけの始まり。全工程の中で一番厚く土をつける
④大直し(2018年4月14日(土))
 縦縄を入れて土を塗り込む
⑤樽巻き(2018年5月26日(土))
 横縄を入れ、土を塗り込む
⑥小直し(2018年6月9日(土))
 再度、縦縄を入れ、土を塗る
⑦むら直し(2018年6月23日(土))
 中塗り前に壁面を平滑にするために土を塗る
⑧漆喰作り(2018年6月30日(土))
 大釜を使った漆喰つくり
⑨中塗り(2018年7月14日(土))
 仕上げ前の最後の土つけ。表面の凹凸をなおす
⑩漆喰の上塗り(2018年8月4日(土))
 仕上げの漆喰塗り。



田家住宅主屋






 旧暦の9月13日の夜は十三夜と呼び、十五夜と同じく月見をする風習が全国で盛んに行われていました。十五夜に対して、「後の名月」とも呼ばれていました。
 十五夜と同じようにお供え物をしましたが、その時期に採れるものが中心となるため、栗や豆などを供えたところが多かったそうです。また、数もそれぞれ13個ずつにしていたそうです。このお供えも子ども達の楽しみの一つでした。
 東日本では「片見月は不幸がある」といって、十五夜に月見を行ったら必ず十三夜でも月見を行い、逆に十五夜をしなかった場合は十三夜もやりませんでした。





高札場



 高札場
 領主が法令や禁令などを板に書き、人々の集まる場所に立てたものが「高札」です。
 法令をこうした形で公示することは中世頃から行われていましたが、江戸時代に入って頻繁となり、街道の辻(交差点)や橋のたもと、また城下・町村の出入口、役人宅前などに、常時これを掲げておく「高札場」も設けられるようになりました。
 高札の文面は、誰にでもわかりやすいよう仮名を多くし、簡条書で簡明に記されていました。
 その上、法令をより徹底・浸透させるため、幕府は、その土地土地の役人に対し、年数回、人々を集めてこれを読み聞かせることを命じたり、また寺子屋の教科書に利用させたりもしました。




旧秋山家住宅土蔵

展示替えのため、内部の公開を中止しているとのこと。



旧安藤家住宅主屋及び内倉



養蚕




 絹糸になる蚕を飼育する養蚕は、江戸時代中期頃から日本各地で盛んにおこなわれるようになりました。農家では養蚕が貴重な現金収入源となり、蚕を「オカイコサマ」「オコサマ」と呼んで大切に育てました。
 養蚕を専業とする農家では、多い所で年に7回も飼育をしましたが、米や野菜なども作っている農家では3〜5回程度おこないます。
 喜多見でも着蚕(はるご)・初秋蚕(しょしゅうさん)・晩秋蚕(ばんしゅうさん)の3回飼育する家が多くありました。 

秋蚕
 8〜9月頃におこなう養蚕を秋蚕といい、この時期に2回飼育する場合には初秋蚕・晩秋蚕といいます。初秋蚕の飼い始めは8月1日頃、晩秋蚕は8月20日頃で、繭になるまで約一ヶ月かかります。
 
蚕の世話
 蚕は4回脱皮を繰り返し、一齢・二齢・三齢・西齢・五齢と成長します。その間は桑の葉のみを食べ続け、朝昼晩と桑の葉を与えました。また、日に1回は蚕の糞や桑の食べかすを掃除し、寒い日には囲炉裏や火鉢に炭を燃やして部屋を暖めました。五齢に入って1週間程すると繭を作り始めます。







お社



旧加藤家住宅主屋









課外学習の子供の顔が入らないよう気を付けて撮っていたら、いつもの手順と違ってしまったので、少しごっちゃになっているかもしれません。





続く