2019/10/24 南千住・浅草散歩 05 平成中村屋発祥の地/竹屋の渡し跡/花の碑/三社まつり・墨堤散歩/正岡子規句碑/マーブル総業/山の宿の渡し

ここも隅田川沿いに南に進む。
隅田公園の史跡が続く。



◆平成中村屋発祥の地




「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでもらいたい」
十八世中村勘三郎丈(当時 勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として二千年十一月、ここ山谷堀に実現しました。
第一回公演は「隅田川続俤 法界坊」でした。



◆竹屋の渡し跡




 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲(みめぐり) 神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十 年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳(まつち)ノ渡、 竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは 「待乳ノ渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の 麓にあたることに由来する。
 「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818~1930) の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋の わたし」の名が見える。
 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には 「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
 昭和三年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。



◆花の碑




 春のうららの関田川
 のぽりくだりの舟人が⋯⋯
 武島羽衣(たけしまはごろも)作詞・滝廉太郎作曲「花」本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和三十一年十一月三日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
  武島羽衣は、明治五年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である、明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時であった。
  滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知 られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある「花」 二十四歳の完成の三年後、明治三十六年六月二十九日生涯を閉じた。
 武島羽衣はその後、明治四十三年から昭和三十六年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した。
 手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな関田川その情景は、 歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。





◆三社まつり・墨堤散歩




 三社まつり・墨堤散歩は、参拝客でにぎわう浅草寺門前の仲見世を通り、浅草寺から墨田川、そして両岸にある桜の名所として有名な隅田公園を結ぶ桜橋までの約1.5㎞のみちのりです。下町の賑わいを楽しむ散歩道です。

隅田川浅草神社
 昭和40年(1965年)新河川法の施工で、岩淵水門から東京湾までを隅田川と定め、その名は正式な名称とされた。江戸時代、隅田川は荒川の別名であった。別名とはいえ、大川の俗称で親しまれていた。隅田川は江戸の行楽地として賑わい、江戸の水運にも大きな役割を果たした。とくに待乳(まつち)山山頂からの眺望は素晴らしく、江戸文人に称された。「浅草寺縁起」は、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が宮戸川(みやとかわ)(隅田川の古名)から観音像を拾得し、主人の土師中知(はじなかとも)邸に安置したと伝えている。浅草寺創建である。3人はその功で、神として三社神社に祭られた。三社神社は現在浅草神社という。その社殿は国の重要文化財に指定。江戸初期の代表的な権現造りである。




正岡子規句碑

「雪の日の隅田は青し都鳥」


説明板がない・・・・。
都鳥とは「ゆりかもめ」のことらしいが、何故かハッキリとそう書いてあるものが少ない。






◆マーブル総業

個人的に想い出のあるお店(w
ブラシの専門店である。





◆山の宿(しゅく)の渡し




 階田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907)発行の「果京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約二五〇メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は隅田区内現存の北十間川架橋。北十間川隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。
 桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。




続く。