2019/10/28 西大井散歩 06 来迎院/大森貝塚庭園/児島惟謙屋敷跡/成田山圓能寺/大森山王日枝神社/大森貝塚碑/大森駅

大森貝塚を見た後は大森駅から京浜東北線で帰る。
貝塚周辺はだいぶ前に来たことがある場所だ。




◆来迎院




滅多にないことだが、彫刻にみとれてしまった。




 来迎院は、安和(あんな)二年(969)に尊栄法印(そんえいほういん)が建立し た寺院で、のち一時荒廃したが、貞和三年(1347) に再興され、寺の名を常林寺と改称した。三代将軍と徳川家光のときに、鷹狩りの際の休息所(大井御殿)が境内に設けられたため「お茶屋寺」とも呼ばれた。天保四年(1833)、上野寛永寺塔頭泉院(たっちゅうりょうせんいん)の住職が兼住することになり、旧称の来迎院と改称した。
 来迎院文書は近世から近代のもので、その内容は来迎院の録起など寺史の解明につながる史料のほか、大井村の検地帳や同村名主で俳人でもあっ た杜格斎景山(とかくさいけいざん)に係わるものも含まれ、大井地域の 歴史を明らかにするうえで重要な史料である。 また、来迎院棟札は、そのその建物だけでなく地域の歴史や文化に関する歴史資料であり、附(つけたり)指定して保存を図るものである。







大森貝塚庭園



案内



地層の回廊





貝塚




貝塚縄文時代のタイムカプセルだ。
 目の前の貝層は、ここ大森貝塚から発掘されたものです。
 この貝塚の中には、縄文時代の品川人のくらしをとく鍵が、いっぱいつまっています。
 この台の上の貝がらや縄文土器破片などは、すべてこの貝塚から出土した本物です。
 そっとさわってみてください。




モース博士象




日本考古学発祥の地 国指定史跡大森貝塚
 大森貝塚は、明治10年(1877)アメリカ人 エドワード・S・モース博士によって発見され 日本で初めて学術調査が行われた縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡で 日本考古学発祥の地である
 品川区は モース博士生誕の地である アメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念してこの碑を建立する




貝塚学習広場





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記念碑

剥げかけていて判読できない部分もあるが、この公園の整備は「歴史と文化の散歩道」事業の一環だったようである。
僕がたまに「みっけ♪」っていう案内板の事業だ。




◆児島惟謙屋敷跡







みっけ♪





近くにこんな歩道?が・・・・。
今度来たときには近くに行ってみよう。
何か説明板くらいあるかもしれない。





成田山圓能寺

幼稚園(保育園かな?)が併設されているため門がバッチリ閉まってる。
別ルートで本堂に行く道があった。
お寺や神社にはよくあることだが、ここまで厳重なのは初めてかも。
警備員も巡回していた・・・。
逆にここまでしないと子供たちの安全は守れないのかもね。










◆大森山王日枝神社



境内社鳥居

この鳥居の奥に下の2社がある。


山王稲荷大明神


栄利稲荷大明神



楽殿




鳥居




大森貝塚

こちらはレプリカ。
サイズも半分。


《大森貝墟(かいきょ)》碑の由来

 大正十四年十二月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース 博士の訃報が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郞・臼井米二郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の六名が発起人となり、大森貝塚の顕彰とモース博士の偉大なる功績を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の臼井米二郎の所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目3番1号)とされた。
 21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが、昭和二年アメリカで起きた世界恐慌が日本にも及び、献金は集まらず、臼井米二郎が土地と資金を提供し、《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。
 除幕式は、昭和5年4月13日におこなわれた。碑の材料は仙台石で、高さ六尺、幅三尺、これに二段の台石を据え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の氏名を刻み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫った。
 昭和三十年三月二十四日、《大森貝墟》碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある《大森貝塚》碑とともに国の史跡に指定された。
 史跡《大森貝墟》碑は、日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、師を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。私たちはこの碑を国の文化財の象徴として、末永く保存管理する使命をもっている。




モース博士と大森貝塚

 アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向かう車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を『SHELL MOUNDS OF OMORI』として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
 モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績を残しました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
 このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。




大森貝塚

上記の写真の所から奥に続く階段を降りると線路沿いにこの大きな碑がある。
電車からも良く見える。





大森駅





日本考古学発祥の地



アメリカの動物学者モース博士が1877(明治10年)横浜より新橋に向かう汽車の窓から 大森貝塚を発見し, これが契機となって日本の考古学が発達しました。 このブロンズは当貝塚出土の土器を約2倍に拡大したものです。





伊藤博文公のお墓をみることは、3年越しの悲願。
一度めぐっている場所だが、あの頃はこんなに細かく見ていなかった。
周辺もまだまだ見てないところがあるので、近いうちに巡ることとしよう。