2019/10/30 02 三ノ輪橋・浅草散歩 03 紙洗橋/地蔵堂/袖摺稲荷神社/鶴の湯/熱田神社/瑞泉寺/東京開放会館

南東に進む。
山谷堀跡を挟んで東西にジグザグしながら南下する。



◆紙洗橋








 かつて山谷堀は、北区王子の音無川を通り隅田川に流れる水路だった。遊郭が新吉原に移転した跡、当時の江戸の人々にとって、猪牙舟(ちょきぶね)に乗って山谷堀を通り、吉原の遊郭へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。
 その後、山谷堀は経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。掲載写真は、暗渠化される前の山谷堀の様子である。昭和52年(1977)以降、台東区が上部を講演に整備し、山谷堀公園となった。



地蔵堂

紙洗橋のすぐ脇にいらっしゃった。



◆袖摺(そですり)稲荷神社





 今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀に乏しくならぬよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九郎(後の北条早雲)が小田原城に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多くの奇端が 顕れたといいます。このことから開運稲荷と尊称されました。
 小田原城落城に至り、この稲荷に信心があつかった西半右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清めると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏となりと喜び本社へ移し奉りました。
 のちに奇端あら
たなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにしいて諸穀の豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖寿里稲荷」が神号となり、 「袖摺稲荷」と変化しました。






◆鶴の湯

銭湯♪
建物がものすごく立派で綺麗!!




熱田神社




 本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)、正保二年(1645) 当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して、当地の鎮守となった。新鳥越町は山谷堀の北側、千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である(後の浅草吉野町)。
 本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近)、関東大震災後の区画整理のため、昭和二年(1927)十一月現在地に移転した。
 本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は、全長368.5センチの長大なものである。弘化四年(1847)、江戸小石川に住居する刀工、川井久幸が制作し、熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政五年(1858)コレラ流行の時には、疫病を祓うため、本大太刀が町内を巡航している。当時江戸の町々では、鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除け行事をおこなっていた。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。古老は「オンミョウマル」と発音していたという。平成二十二年、台東区有形民俗文化財に登載された。



豊川出世福徳稲荷神社





境内社




境内社








鳥居




瑞泉寺



庚申塔



 庚申塔庚申信仰に基づいた石造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。
 庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の 日の夜を寝ないで過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈るものである。信仰を同じくする人々が、町村あるいは集落ごとに庚申講というグループを組織して庚申の晩に集まり、行事をおこなった。区内には、かって八十基を超える庚申塔があったが、現在では 六十一基の庚申塔を見ることができる。
 瑞泉寺庚申塔は元禄十四年(1701)に造立されたもので、下方部には造立に携わった講員の名前が見られる。上方部は大きく欠損しているが、正面 には邪鬼を踏む青面金酬像が刻まれ、その左右と下方には二鶏と三猿が表されている。
 庚申塔は地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、瑞泉寺庚申塔を含む、 現存する庚申塔のうち六十基が、平成十九年三月に 台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。






◆東京開放会館

WEBで調べたら、部落解放同盟東京都連合会さんのページにたどり着いた。
部落解放同盟東京都連合会






続く。