2019/11/02 02 梅ヶ丘散歩 03 若林公園/桂太郎墓/松陰神社/松陰橋/厚徳橋/杉大門橋

国士舘大学の後は三軒茶屋に向かって散策開始。
ざっくりと東急世田谷線沿いに歩く。



◆若林公園




桂太郎




 弘化四年(1847)十一月二十八日、長門国阿武郡萩町(ながとのくにあぶぐんはぎまち)(現 山口県萩市)に生まれる。長州簿士として第二次長州征伐や戊辰戦争に参加、維新後の明治三年(1870)には近代的な軍事制度を学ぶためドイツに留学した。帰国後、山県有朋に 参株本部の独立を建言、鎮台を師団に改編するなど明治陸軍の軍制改革に大きな役割を果たす。台湾総督などを歴任し、明治三十一年(1898)伊藤博文内開で陸軍大臣となった。明治三十四年(1901)には首相に指名され第一次桂内閣を組織し、三年後に勃発した日織戦争に際しては開戦を決定、首相として戦争を主導した。明治三十九(一1906)年に総辞職し、西園寺公望(きんもち)に首相の座を譲るが、第三次桂内閣の大正二年(1913)までは「桂園(けいえん)時代」と呼ばれ、安定した政治体制が築かれた。 明治四十一年(1908)には韓国併合の条約が調印されている。
 吉田松陰を散愛し、自らも明治三十三年(1900)台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して初代校長に就任、基礎作りに 尽力した。
 大正元年(1912)末、三度首相に指名されたが、幾ばくもなく総辞職し、翌二年十月十日急逝した。享年六十六。「平素業拝する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、当所に葬られた。






松陰神社




 松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫(だいぜんだいぶ)の所領で大夫山(だいぶやま)と呼ばれていたこの地に改葬されました。
 明治十五年(1882)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。




楽殿



松陰先生墓




松陰先生のお墓の周りには、他の方のお墓もあった。




吉田松陰先生像



 明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
 松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。
同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。

※大熊氏廣(安政3年(1856)〜昭和9年(1934))
 明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、
 明治15年首席で卒業。明治21〜22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。
 日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社大村益次郎像が有名




松下村塾(しょうかそんじゅく)

松陰神社の境内。





松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
 松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(かがく)(山鹿流(やまがりゅう)兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞高杉晋作、野村靖、山縣有朋品川弥二郎伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出されたことはとくに有名です。
 本神社にある松下村塾山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。


松下村塾の主な塾生たち
高杉晋作(たかすぎしんさく)天保10年(1839)~慶応3年(1867)
 19歳のとき松下村塾に入塾、松下村塾四天王の一人。久坂玄瑞と共に松門の双璧。文久2年上海に渡り世界の動きを知り、尊王攘夷運動を起こ
す。奇兵隊を組織し薩長同盟を締結、第二次長州征伐軍を各地で撃破するも結核で死去。享年29歳。

伊藤博文(いとうひろぶみ)天保12年(1841)~明治42年(1909)
 安政三年浦賀警護に出役の時、来原良蔵に見出され松下村塾に入塾。のち桂小五郎に従い攘夷運動に参加。井上馨と共に英国に留学、倒幕、富国強兵論に転じ、明治新政府の要人として数度の内閣を組織。ハルビン駅頭で狙撃。享年69歳。

久坂玄瑞(くさかげんずい)天保11年(1840)〜元治元年(1864)
 高杉晋作と共に松下村塾の俊才。松下村塾四天王の一人。14歳で落校明倫館に入り医学教授、洋学教授を学ぶ。17歳で九州に遊学後江戸にて
洋書の勉学。井伊直弼独断の日米修好通商条約締結に反対し、以後皇位回復を使命とした。禁門の変にて負傷、鷹司邸にて自刃。享年25歳。

前原一誠(まえばらいっせい)天保5年(1834)~明治9年(1876)
 吉田松陰に師事、長崎に遊学、英学を修め後脱落し京都に遊学。元治元年の役、慶応元年六月幕長戦参謀、明治元年北越出兵総督を歴任。明治九年朝廷の奸臣を払うため決起するも敗れて斬首。享年43歳。

品川弥二郎しながわやじろう)天保14年(1843)~明治33年(1900)
 安政4年入整。寺田屋事変に関係、高杉晋作と外国公使襲撃計画、文久3年正月松陰遺骨改葬に尽力をつくし土雇となる。木戸孝允に従い薩長連携に尽くす。後倒幕軍参謀として各地を転戦。後政府の要職を歴任し各大臣、枢密願問官に任ぜられる。国民協会を組織し信用組合の奨励に尽力。享年58歳。

山田顕義(やまだあきよし)弘化元年(1844)~明治25年(1892)
 安政5年入整。元治元年、上京し禁門の変に参戦、四国連合艦隊とも戦ぅ。後、整武隊総督となり成辰戦争には倒幕軍の参謀、明治4年陸軍少将になる。岩倉具視等と欧米諸国を視察、陸軍の要職を歴任、明治18年司法大臣となる。日本大学国学院大学を創設。享年49歳。

山縣有朋(やまがたありとも)天保9年(1838)~大正11年(1922)
 安政6年10月久坂玄瑞の紹介で入塾。元治元年の役に参加、武器と兵制の改革を痛感。後、上洛し西郷、大久保等と倒幕の薩長同盟を討議。渡欧し兵制の研究。大村益二郎の後軍政を担当。廃藩置県を推進。国民皆兵を主張し徴兵制を制定。軍の中枢と各大臣、内閣などを歴任。享年85歳。











石碑










◆松陰橋

烏山川緑道。
烏山川(からすやまがわ)は、東京都世田谷区内をかつて流れていた二級河川でほぼ暗渠化されその上が緑道になっている。







みっけ♪



◆厚徳橋











◆杉大門橋













続く。