2019/12/05 02 新宿歴史博物館「測量×地図」

二子多摩川からの帰りに、新宿歴史博物館へ行ってきた。
お目当てはコチラ↓




地図の歴史と測量の歴史がわかる企画展だった。
地図と測量の歴史は伊能図から現代までが展示。
情報量が多く、長距離散歩の後だったのであまり頭に入らなかった。
もったいない・・・・・・・・。





前回来たときの日記はコチラ↓
2019/07/23 02 新宿歴史博物館 - ovanの社会科見学





新宿区歴史博物館のHPはコチラ↓
新宿歴史博物館



場所は、JR・東京メトロ丸ノ内線南北線四ツ谷駅」下車 出口2より徒歩10分
東京メトロ丸ノ内線「四谷 三丁目 駅」下車 出口4より徒歩8分
都営地下鉄新宿線曙橋駅」下車 A-4出口より徒歩8分
閑静な住宅街の入り口にありますので、道に迷わないよう気をつけてください。
休館日は第2・4月曜日、全館燻蒸作業日(12月)と年末年始(12/29~1/3)のようですが、行かれる方は事前にHPなどチェックしてから行ってくださいネ!







以下、メモ

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1、近代測量前史
近代化以前の江戸時代にも、幕府が諸大名に命じて作成した国絵図の他、名所案内や道中図、都市図(切絵図)など様々な地図が作られてい
ました。しかし、これらの地図は正確な測量によるものではなく、縮尺や描き方も様々でした。日本における近代的な地図は、伊能忠敬らによ
る全国測量に基づいて作成された「大日本沿海興地全図」(通称「伊能図」)を嚆矢とします。ただし、「伊能図」は幕府の機密書類として公開されることはありませんでした。


2、近代測量の幕開け
明治時代(1868 ~1912)
明治維新の後、新政府では正確な地図の必要性を意識し、明治 2 年(1869)に民部官庶務司戸籍地図掛が設置されたのを皮切りに、工部省、兵部
省などの官庁がそれぞれの方法で地図作りを開始します。その後、測量·地図作成機関の移管·統合を経て、明治 17 年(1884)に陸軍参謀本部測量局(後の陸地測量部)に統一されました。測量については正確な三角測量を試みますが、当初費用の面から全国展開には及ばず、まずは関東平野を対象に簡易的な測量で作図する「迅速測図」が作成されました。その後、三角測量に基づく地形図が順次作成されていきます。


3、近代測量の発展
大正~昭和戦前(1912 ~1945)
明治 23 年(1890)に国の基本図を縮尺5万分の1 で整備する方針に改め、大正13年 (1924) には本州,四国.九州.北海道の内地の整備が、34 年の歳月をかけて完成しました。こうして完成した地図は、軍事や国の事業に使われるだけではなく、一般にも販売され、広く国民に還元されました。


4、戦災からの復興
戦後~昭和35年(1945~1960)
昭和20年(1945)8月、敗戦による軍部の解体とともに陸地測量部も解体しました。しかし、国土の戦災による実態を明らかにし、復興へとつなげるためには、地形図の修正や新しい地図作成が必要であり、同年9月には内務省に引き継がれました。昭和35年(1960)には地理調査所を国土地理院と名称変更し、現在に至ります。



5、高度成長を支える
昭和35年~64年(1960 ~ 1989)
戦災の復興も一段落し、土地利用の高度化や開発を図るための地図利用が増加し、写真測量などの技術が向上しました。2万5千分1地形図の本格的な整備が始まり、昭和 58年(1983) に全国整備が完了しました。また、昭和 39 年(1964)から人工衛星観測を開始し、宇宙技術の導入が始まりました。


6、情報通信技術との融合
平成から令和へ(1989 ~)
天体や人工衛星からの電波を利用して地球上の位置を決定する方法が活用されていきます。平成5年(1993) 度から衛星からの電波を受信するアンテナである電子基準点の全国整備が本格的に開始され、平成 14 年 (2002)に全国整備が完了しました。人々の生活ではカーナビや GPS が普及し、紙の地図だけではなく、デジタル地図も一般化しました。



ごあいさつ

 このたび、公益財団法人新宿未来創造財団新宿歴史博物館、近代測量150年記念事業椎進会議の主催により、近代测量150年記念「測量x地図 測り・ 描き・守り・伝える」を開催いたします。
 本年(2019)は、明治2年(1872年) に測量を行う国の機関が設置されてから数えて満150年に当たります。明治政府、西洋測量術を導入し、各理
の地名や地理の情報収集、三角测量、 水準測量などの基準点設置、全国を網羅した縮尺5万分の1の地形図整備等を実産してきました。その基本的な体系や枠組みは今日まで存続し、現在に受け離がれています。
 この展示により、150年間の選量機器を地図作成の発展を振り返るとともに、未来を描く起点を見いだしていただければ幸いです。
 今回は、近代測量150年を記念し、明治初期に国土地理院の前身機関により作成された貴重な迅速測図原図を公開します。
どうぞごゆっくりとご観覧ください。












伊能忠敬の測量と地図




全国測量の目的
 伊能忠敬が全国測量を始めたのは、当時の天文学では日食や月食がいつ起こるか予測できない問題がありました。これを解決するには緯度1度の長さを測り地球の大きさを確定することが必要で、日本地図を作ることが目的ではありませんでした。
 その頃、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)近海にロシア船がたびたび来航するようになり、幕府は国防のために正確な地図が必要と考えていました。そこで師匠の高橋至時(よしとき)は、地図作りをしながら同時に各地の緯度を調べ、緯度1度の距離を算定しようと考え、 蝦夷地までの測量と地図作りを幕府に願い出ました。その担当者として推薦したのが弟子の忠敬で、全国測量の始まりとなりました。

伊能図とは
日本初の全国測量が完了した後、日本全図の作製に取り掛かった忠敬ですが、文政元年(1818)、地図の完成をみることなく73歳で亡くなりました。残された地図は3年後の文政4年(1821)に忠敬の弟子たちの手により完成し幕府に提出され、「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず)と名付けられました。



5千分1東京図測量原図



5千分1東京図測量原図は、皇居を中心とする東西南北7.5km四方の地域について、迅速測図(じんそくそくず)の特殊版として作成された5千分1東京図の原図です。この測量は明治9年(1876)に着手されましたが「西南戦争」のため中断し、明治16年(1883)に再開されて翌17年に完成しています。
「明治13 年式図式」による極めて色彩豊かな地形図で、この彩色には当時の職業画家としても著名な人達が加わったので美術的にも価値の高い図となっています。また、家屋や庭園などの相当細部にわたる描写には明治初期の景観がよく表現されています。