2019/01/05 等々力散歩 07 多摩川台公園(宝來山古墳、多摩川台古墳群、海南亭、亀甲山古墳、調布浄水場跡)

こちらは以前来たことがある公園。
2017/04/05 東急1日券花見の旅 02 多摩川台公園/丸子川/八幡神社/傅乗寺/宇佐神社/寮の坂/九品仏 - ovanの社会科見学



公園内は古墳がたくさんある。



◆宝來山(ほうらいさん)古墳



 宝菜山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、標高37.5m付近に築造された全長約97mの前方後円墳で、四世紀に築かれたこの地域最古のものである。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107mの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。
 昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土榔の埋葬施設が発見され、四獣鏡、紡錘車形碧玉(ぼうすいしゃがたへきぎょく)製品、玉類、剣などの武器類が出土している。
 平成七年の公園整備にともなう確認調査 において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が 「搬(ばち)状」に広がる形をとることが明らかにされた。墳丘は、前方部二段、後円部三段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する 上で重要である。



東京都指定史跡宝菜山古墳
 宝菜山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区多摩川台公園西端の標高37.5m付近に築造された前方後円墳である。国史跡亀甲山(かめのこやま)古墳に次く全長約97mの規模をもち、古墳時代前期前半(四世紀前半) に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107mの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。
 昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土柳の埋葬施設が発見され、竹製四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣、槍等が出土している。現在、この出土品は、慶鷹義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。また、レブリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。
 平成七年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「擬状」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明前方部二段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる 一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成八年三月十八日付けで、東京都指定史跡に指定された。




多摩川台古墳群

 多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡宝萊山古墳のニ基の大型前方後円墳古墳時代前期(四世紀)に築造されている。
 古墳群は、最初にニ号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長39m)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳支での円墳(直径13~19m)が七世紀中頃まで継統して築造された。
 発掘調查された古墳の横穴式石室內からは、副葬された直刀や鉄鏃(てつぞく)等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡(くつわ)、須惠器(すえき)や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。
 本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をどどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる責重な古墳群である。





八号墳



虹橋


七号墳



六号墳


五号墳


四号墳


三号墳


三号墳近くからの眺め

富士山が見える。



一号墳




二号墳



◆海南亭


下村宏レリーフ




多摩川台公園 (昭和二十八年開園)と下村宏氏」 昭和十二年、田園調布に居を構えて以来、この地(多摩川台)は下村宏氏が最も好まれた散策地でした。
 未開の古墳群の丘を眺めながら「何とかならないか」が口癖で、五島慶太氏(東急電鉄創設者)とも、この辺りの未来図を熱く話し合われていたそうで初代国立公園審議会の要職ににあった下村宏氏は、当局に掛け合い、まず多摩川台を公立公園とする許可を取り付け、努力の末、昭和二十八年都立公園として開園、昭和五十年大田区に移管。現在では武蔵野の面影を残す自然林豊かな公園として区民の憩いの場となっております。
 下村宏氏が好んで立たれた丘の上にあずまや(休憩施設)があります。ここが歌人としても活躍された下村宏氏の号である海南(かいなん)をとって、「海南亭」と名付けられております。壁面に肖像レリーフと功績を顕彰した
名盤を慨め込んでおります。

 「下村宏氏」(明治八年~昭和三十二)
  明治·大正·昭和の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。号は海南(かいなん)。
 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、公益 福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡は極めて多方面にわたりました。また、晩年には(社)田園調布会会長に就任(昭和二十七年~昭和三十二年)されました。




海南亭

   下村 宏
 明治8 (1875) 年~昭和 32 (1957) 年
 政治家・教育者・ジャーナリスト・歌人(号は海南)
 「海南亭」は、多摩川台公園の生みの親である下村宏の数多くの功績を顯彰して、昭和 35 (1960) 年に多摩川台 2 号墳の 南側に建立された
あずまや(四阿·東屋)です。
 その壁面には、下村宏氏のレリーフと来歴。人物。和歌を記した銘版が盛め込まれ、建立以来、区民憩いの休み処として長年親しまれています。
 同氏は昭和 20 (1945) 年8月15日、国務大臣兼內閣情報局総裁として昭和天皇による玉音放送を実現させ、終戦に尽力しました。
 生前に勲一等瑞宝章を受章し、多くの著作があります。



◆亀甲山古墳




 この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや、その古墳の形により、古墳時代前期後半(四世紀後半)頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。
 この前方後円墳は、後円部南端を浄水場(現· 水生植物園)建設工事により削られているものの、比較的よく原形を保っている。港区芝公園内にある芝丸山古墳とならんで、都内を代表する古墳である。
 昭和三年、国の史跡に指定されている。



◆調布浄水場

今はもう使われていないとのこと。
多摩川から取水し、浄水して大田区の一部に送水していたそうだ。





続く。