2020/01/07 豪徳寺散歩 01 経堂駅/庚申塔/世田谷八幡宮/宮の坂駅/宮の坂1号踏切/豪徳寺

24時間勤務アケで経堂から豪徳寺経由で桜新町まで散歩。
桜新町まで行かずに途中で経堂駅に西側経路で戻ろうと思っていたのだが、雨が降ってきてしまった・・・。


この日記のエリアは経堂駅から南東に向かい、東急世田谷線沿いを歩く。
一部は2016/04/20に来ている場所だ。
2016/04/20 part3 世田谷観光(勝光院、世田谷八幡、厳島神、宮の坂、豪徳寺) - ovanの社会科見学
宮の坂駅からは東へ進む。



◆経堂駅

スタートの小田急線経堂駅。






庚申塔





世田谷八幡宮




 世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天皇の覚治五年 (1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087~94)の頃です 義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待 ため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚くもつ義家は、今度の勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、 豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ盛大なる 勧請報賽・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事 は有名であり、現在でも奉納神事として伝えられています。
 その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社八幡宮建立大壇那源朝臣頼貞。天文十五年丙午八月二十日建立、十二月二十日癸卵御選宮」とあり、 百五代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、また この時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(二尺三寸)一振を寄進したと 云われています。
 このように当社八幡様は吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場 家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に減んでしまいました。
 その翌年の天正十九年(1591)には江戸城に入城した徳制家康も、源氏の出身でありその氏神八情神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川家代々の将軍は朱印地として社領十一石を寄進する習わしとなりました。
 明治維新後の八幡様は、明治五年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。
 昭和団十九年五月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人違に厚く信仰されています。


楽殿


力石




世田谷招魂社




高良(こうら)神社




土俵




厳島神社










境内社

上記、厳島神社の池の真ん中にあった社。
弁天様であろうか?


案内図



鳥居1



鳥居2






宮の坂駅

東急世田谷線宮の坂駅。古い電車が展示されていた。






宮の坂1号踏切




すぐ隣が宮の坂駅



豪徳寺



 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(1584)中興開山門奄宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
 寛永十年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
 境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝靡印塔が残されている。



松福庵(招福庵)




松福庵(招福庵)脇の招き猫



松福庵門



三重塔




鐘楼



 本焼鐘は、延宝七年に完成の後、今日ま で移動なく当寺に伝えられてきた。
 形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い楚鐘といえる。
 制作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。
 本焼鐘は、この時期の楚鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる楚鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。



仏殿

今回写真が無かった!!
なんで???
ということで2016年4月20日に撮った写真。




 豪徳寺仏殿は、寬文から延宝年間(1661~1680)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物である。棟札によると、延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝長女) の弟で藩主直澄が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道・工匠星野市左衛門尉積則らが当たった。
 仏殿には江戸時代前期から日本にもたらされた黄檗宗(おうばくしゅう)の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に正面と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。吹き放ちの裳階(もこし)(下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、特に板状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鲜の建築には良く使われるものであり、日本ではあまり一般的ではない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものであることから、区有形文化財に指定された。



豪徳寺仏殿像 五軀

木造大権修利菩薩筒像
木造弥勤菩薩坐像
木造釈迦如来坐像
木造阿弥陀如来坐像
木造達磨大師坐像

 本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(1677一六七七)、井伊直孝の娘 掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲(らくようぶっこうしょううん)」に、五軀一具として造らせたものであることがわかる。
 祥雲は黄檗宗(おうばくしゅう)の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(しょううんげんけい)(1648~1719)のことである。
 当時仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄葉僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲が推挙されたものと考えられる。
 本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。




井伊直弼

こちらは今回写真を撮っていなかったのでまた2016年4月20日の写真。



こちらも2016年4月20日の写真。

 井伊直弼 (1815~60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政五年(1858)四月大老にある。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ヶ国情雨役に調印。また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政七年三月、江戸城桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
 世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺 に埋葬された。
 墓石の高さは三四二センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎柳暁覚翁大居士」とある。




地蔵堂

工事中



山門



続く。