2020/01/07 豪徳寺散歩 02 世田谷城址公園/稲荷下橋/豪徳寺稲荷下橋公園/松本水車跡/世田谷保健所/くぬぎ公園(庚申塔)

まだまだ東へ進む。
くぬぎ公園からは南に向かう。


◆世田谷城址公園



 世田谷城の南東端の郭(くるわ)を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。

「周辺史跡等案内」
国史彦根藩主井伊家墓所(豪徳寺二丁目豪徳寺内)
 豪徳寺の前身は弘徳院と称し、万治2年(1659)に没した彦根藩井伊直孝の善提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
 その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
 北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。

②区史跡 吉良氏墓所(桜一丁目 勝光院内)
 勝光院は、天正元年(1573)、吉良氏朝が父頼康の善提のため、吉良治家が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされ、以後代々の菩提寺となっています。
 墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義只以降、代々の墓が置かれています。

世田谷八幡宮(宮坂一丁目)
 天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、 世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたともいわれています。

④国重要文化財大場家住宅主屋及び表門(都史跡世田谷代官屋敷)(世田谷一丁目)
 江戸時代、彦根藩世田谷領20カ村の代官職を務めた大場家の住宅で、敷地内には世田谷区立郷土資料館があります。




世田谷城址

ここが一番高いところ・・・かな?



 世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西·南·東の三面に鳥山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半 に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
 吉良氏は清和源氏·足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後半に関東が乱れると関東管領·上杉氏やその家宰·太田道藩に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄三年(1530) には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この問、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庭護下にあったが、天正十八年 (1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
 世田谷城の濠·土塁の構造は天文六年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。



土塁





◆稲荷下橋

烏山川緑道の橋。






豪徳寺稲荷下橋公園

烏山川緑道側の床に、タイルが張られている。

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◆松本水車跡

上記、豪徳寺稲荷下橋公園のすぐ近く。
説明板などは何もなかった。




◆世田谷保健所





◆くぬぎ公園


庚申塔

公園内に庚申塔があった。



続く。