こちらでも南下。
だんだん勾配がきつくなってくる。
万葉集は五世紀から八世紀に及ぶ約三百年間の四千五百首あまりを収録した歌集で当時の東国から九州までの広い地域、様々な人々の歌を納めています。
ここに掲げた三首は、八世紀ごろ荏原郡とよばれた目黒区を含む東京西南部の防人とその妻によって詠まれたものです。
かな文字の無い時代でしたので、東国の方言をまじえながら万葉仮名で書きあらわされ、読みは次のようになります。
巻二十の四四一五番
白玉(しらたま)を手に取り持(も)して見るのすも家なる妹をまた見てももや
主張 荏原郡の物部歳徳(もののべのとしとこ)
巻二十の四四一六番
草枕(くさまくら) 旅行く夫(せ)なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
物部歳徳の妻 椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)
巻二十の四四一八番
わが門(かど)の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(なれ)わが手触れなな土に落ちむかも
防人として東国から遠く九州に派遣され、故郷に残してきた妻を気遣う歌、生還の困難な旅先の夫を案ずる歌と、いずれも人間性あふれる歌で夫婦の愛情が伝わってきます。
万葉集は我が国が世界に誇る詞華集であるとともに、今日に伝える貴重な記録です。目黒区はこのえにしを偲び三首を石に刻みました。
◆天神坂
坂の途中に北野神社があり、天神様(菅原道真)を祀っていることからこの坂名となった。坂のあるこの道は、もとは駒沢方面へ通じる古道であったが、現在は直線的になり経路も変更になっている。
柿の木坂の天神様
天満宮の内陣には菅原道真公の御神体(木彫りの天神様)がお祀りされています。御神体はいつの時代のものかわからない。
しかし、平成十三年七月、奉賛会有志が御神体と社殿の下部を修復したときに、御神体の下部に「安永六丁酉九月二十五日 再興 小杉山十五世日従(花押)」と黒書が発見され、(安永六年)1777年9月25日に小杉山常円寺十五世日従住職が再興されたことがわかった。
柿の木坂の天神様は地元のいろいろな方々にお祀りされて、今日に至っている。
学業 文芸 武芸 書道の天神様
地元の天神様に学業成就などお願いしたらいかがでしょうか。
北野神社と耕地整地の碑
天神様こと菅原道真を祀る。北野神社はもとは田んぼの脇にあり、農業神として崇(あが)められていたが、昭和初期の耕地整理で現在地に移された。境内には耕地整理の記念碑がある。
歓喜天堂
氷川山虚空蔵寺金蔵院は真言宗の寺で、慶長五年(1600)頃に頼栄上人によって創建されたと伝えられています。古い記録としては享保年間(1716~1736)に俊海法師が本堂を建て直したことが残っています。もとは隣接の八雲氷川神社の別当寺で、明治七年(1874)に一旦は無住廃寺となりましたが、明治十六年に再興され、玉川八十八ヶ所霊場の第53番札所になっています。
本尊の大日如来像と脇侍の「木造不動明王及び両童子立像」(区指定有形文化財)が本堂に安置されています。不動明王像は寄木造で像高74.5cm、足元には各々岩座に立った白色の矜羯羅童子と赤色の制吨迦童子を従えています。
不動明王像の頭部内から発見された11枚の文書により、像の作者は不明ながら、応仁二年(1468)に大和国山辺郡・広瀬郡のあたりで造立されたことや、造立の目的などが明らかとなりました。
明治四年、境内の建物を使用して目黒区内で初めての学校が創立されました。この学校は後の目黒区立八雲小学校(八雲小学校としての創立は明治7年)で、目黒区で一番古い小学校の誕生の地でもあります。
金蔵院と不動明王
慶長の頃(1600年頃)頼栄(らいえい)上人により開かれた。不動明王伯指定文化財。明治4年、この寺に区で初めての学校が開かれた(後の八雲(やくも)小学校)。目黒区で一番古い小学校の誕生だった。
◆八雲氷川神社
旧衾村の鎮守で、祭神は素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命の三柱です。
創建の年代は詳らかではありませんが、内陣に文化14年(1817)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政2年(1855)に行われているところからみて、かなり古いことがわかります。
祭礼は、毎年1月、5月、9月に行われますが、特に9月には神楽殿で素盞嗚尊の”八岐の大蛇退治の物語”を表現している「剣の舞」が奉納されます。
約200年の昔から伝わる古式豊かな舞で、太鼓、笛、大拍子に合わせて、一人の人が舞う美しいものです。
この神社は昔から「癪(しゃく)封じの神」として広く信仰され、遠く下総や相模からも参詣人がつめかけ、栄えた神社です。
神楽殿
◆呑川柿の木坂コース
韓文谷そぞろ散参は、武蔵小山駅から碑文谷を経て自由ヶ立駅までの約5.8kmのみちのりです。桜並木の立会川緑道と碑文谷八幡、円融寺といった大きな寺社、そして武蔵小山、都立大学、自由が丘のショッビング街と静かな住宅街をめぐります。
呑川と衾村
呑川は、世田谷区桜新町の湧水を合わせた呑川源流と、奥沢浄真寺(九品仏)境内の湧水池を水源とする九品仏川が合流し、次に大田区池上で洗足池を水源とする小川を合わせて蒲田方面へと流れ、東京湾に注ぎます。江戸時代より農業用水として利用されてきました。当時川流がつくる地形は起伏に富み、谷地は水田に、台地上は畑地に利用されました。このあたり一帯は衾村といい、大根、芋、筍(たけのこ)などが特産品だったようです。衾の名の由来については定かではありません。村の地形が襖をひろげた形に似ているからという説、枚場が多く、馬の飼料であるフスマの産地であったからという説、また病気の伏馬から付けたという説などがあります。
続く。