2020/03/12 西蒲田散歩 06 矢口陸橋/今泉神社/花光院/矢口氷川神社/氷川児童遊園/新田神社/矢口南児童公園

まだまだ武蔵新田駅のある西へ進む。



◆矢口陸橋

上は環八。下は第二京浜



矢口陸橋すぐ近くにある東急の高架。



◆今泉神社


稲荷神社


境内社



力石



昔時六郷領今和泉村八幡宮ニ有宝永年代ヨリ土地老若氏子ガ祭壇ス時体位向上心身錬磨ニ使用セル石ナリ
台座ヲ奉納シタ永ク保存願ウ物ナリ




◆花光院




◆矢口氷川神社



稲荷神社



鳥居



◆氷川児童遊園

上記氷川神社の境内が一部公園になっていた。





◆新田神社



新田神社について
 南北朝時代、新田義員(よしさだ)公の第二子として生まれた新田義興公という、とても強くて勇敢な武将がいました。 その頃日本は南と北に別れ、争いを繰り返していました。そして義興公は天皇を守り、 勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝つ武将として有名になりました。
 そこで正々堂々としたいくさでは義興公に勝てない敵の武士たちは、 多摩川の矢口の渡で義興公主従が乗船した船の底に穴をあけ、両岸から矢を射かけるといいう卑怯な作戦で義興公主從を殺害しました。(1358年10月10日)
 その後、此の謀略を企てた敵の武士たちは吉雄機構の音量に悩まされて狂死にしたり、この矢口には火の玉があらわれたり、霊がたびたび落ちるようになりました。これを見た村人たちが義興公の祟りを鎮めるために、義興公の境墓の前に神社をつくりました。
 この新田神社は怨霊信仰に基づく神社です。これは祟り神の信仰で、いわゆる祟りのある神様をおまつりすることで、その強い霊力によって、反対に様々な災害や災難から救ってもらうことができると考えられ、人々の信仰が高まりました。
 そして、新田神社は平成20年10月には、神社が創建されて650年を迎え、現在では「関運の神」として人々から広く崇敬されています。

破魔矢の元祖矢守
 社殿のろには、昔から決して神城を超えることがなく、雷が鳴るとビチビチ と割れたという不思議な竹があり、江戸時代にエレキテルを制作した平賀源内がこの竹で厄除招福。邪気退散の『矢守』を作りました。
 これが全国の社守で接与されている破魔失の元祖になります。
 これを記念して、日本を代表する有名グラフィックデザイナー浅業克己氏の制作された矢守のオプジェが社頭にあります。

東京のパワフースポット 御神木欅(けやき)
 境内には、江户時代に雷が落ち、また昭和20年の空集の際、この矢ロー帯が焼け野原になっても、唯一残った不思議な樹齢700年の大木の欅があります。
 そして、古来よりこの木に触れると「健康長寿。病気回復 若返り」の御利益があるといわれています。

神道について
 神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰、民族宗教といわれています。初詣や厄除、初宮参りや七五三、結婚式や地鎮祭など、神道の行事は日常生活のいたるところに見かけることができます。
 遠い昔、私たちの祖先は自然と関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、恵みを与える一方、猛威をふるまいます。そんな自然現象に神々の働きを感じました。また自然の中で受け継がれていく生命の尊さを感じ、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きと思い、清浄な山や岩、 木や滝などの自然を神宿るものとしてまつりました。やがてまつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。
 このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、 大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、 日本にそれまでに独自に発達してきた信仰、 またその神のカというものをさして、神道という言業であらわされるようになり ました。
 神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々の衣食住や生業を司る神々など、その数の多さから八百方の神々といわれます。 そして、 当神社の御祭神 新田義興公のように国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。
 神明さま(神明神社)、お稲荷さま(稲荷神社)、八幡さま(八幡神社)、天神さま(天満宮)などが存在するのは、多くの神々が、地域の人々から地域の守り神として篤く崇敬されてきた事を意味しています。
 神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心とした日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神奥や山が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。神道の祭りを行うのは、神社だけではありません。家庭で神棚の前で家の安全、家族の無事を新ることも小さな祭りといえます。
 神道のもつ理念には、鎮守の森に代表される自然を守り、自然と人間とがともに生きてゆくこと、祭りを通じて地域社会の和を保ち、一体感を高めてゆくこと、子孫の繁栄を願い、家庭から地域、さらには日本の限りない発展を祈ることなどです。また、神道には、神々をまつる環境として、清浄を尊ぶという特徴があります。神社は常に清らかさが保たれ、祭りに参加する人たらは必ず心身を清めます。これら神道の理念や特徴は、日本人の生き方に深く影響しているといえるでしょう。

御祭神
従三位左兵衛佐源朝臣新田義興

新田義貞公の第二子南朝の忠臣 無類の勇将足利勢の謀略にかかり正平十三年十月十日ここ「矢口の渡」にて殉難

創記
正平十三年十月(西暦一三五八年)

御祭神の御塚(円墳)
社殿裏

本殿及幣殿
明治神宮下付 昭和三十五年復元奉建(昭和二十年四月戦災により社殿全焼) 

拝殿 
総桧 流れ造り
平安時代の代表的建築様式伊勢神宮下付の御用材をはじめ全国多数篤志家の奉により昭和三十五年新菜

神燈
伊勢神宮下付 昭和三十一年|復元建立

手水舍
伊勢神宮下付 昭和五十一年復元建立



稲荷神社




宝物殿




氷川神社の神輿・山車



 この矢口地区(矢口南町会・矢口中町会・矢口北町会)の氏神樣は、氷川神社(御祭神 須佐之男命 矢口一丁目二七番七号鎮座)である。
 昭和二十年四月の空襲で、この新田神社や氷川神社の社殿をはじめ、両社の神輿など残念ながらすべて焼失してしまった。そこで、地元の総代・崇敬者・有志が集まって、昭和三十三年に氷川神社の社殿ならびに、この神輿・山車を新たに造ったのである。そして氷川神社での隔年の
八月の祭礼では、各町会の人々の協力により、この神輿を渡御(とぎょ)させ盛大な例大祭が現在でも斎行されている。
 しかし氷川神社の神輿庫の老朽化が激しく、その神輿庫の補修の案もあったが、総代やその当時の各町会の人々で協議して、平成二十年十月に新田神社が 鎮座六百五十年を迎えるにあたり、新たに、ここに神輿庫 を造り、氷川神社の神輿・山車を陳列することを決めたのである。
 それは氷川神社の氏子区域内に新田神社が鎮座しているので、戦災後、新田神社では独自で神輿を造ることはせず、両社の祭礼でこの神輿が渡御できるように正面と後部には氷川神社の社紋『左三つ巴』そして左右の側面には新田神社の社紋『一つ引き両(大中黒)』がつけられているのである。


新田大明神大鳥居由来記



 此処に保存する石材は、かつて武蔵新田駅前通りに新田神社一之烏居として吃立せるものにして、昭和四十五年に下水工事の際、過りて笠木
部を折損、倒壊の危険を生じたるにより、やむなく解体し、此処に保存するものなり。
 そもそもこの鳥居は、江戸麻布の篤志家・亀屋重五郎と称する人の発願尽力によりて成れるものなること碑文「建石華表之記」により明らか
なり。
 即ち、亀屋重五郎は任侠の快男子にして、人の災厄、困苦を知れば身の危険をも顧みず直ちに赴きて助く。高潔の仁徳者にして信望極めて篤し。敬神家にてかつて当神前に祈願して、しばしば神恩を蒙(こうむ)りて感激し、石造の大鳥居の奉献を発願尽力す。然るに其の功未完成にして他界す。
 新田神社崇敬者、重五郎尊敬者は荏原郡一帯・川崎近辺の近郷を始めとし江戸府内等に甚だ多数ありて、本所の金子屋新八と称する人を中心として、協力、浄財を聚め、その補造に努め、遂に重五郎の宿顧遺業を達し、この石造大鳥居を奉建することを得たり。

   時に天保三年(1832年)秋八月
   実に重五郎没後六十年目の事なり

この鳥居の藳座(こうざ)には、浄財の寄進者として武士・町人をはじめ、村中・講中等の名が約160名ほど記されり。



御塚(おつか)



 社殿後部の御塚は、御祭神新田義興公の御遺体を埋葬した所で直径約十五メートルの円墳(えんぷん)である。
 この中に入ると必ず崇りあるというところから「荒山」「迷い塚」などともいう。
 また、この御塚後部には昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹(しのたけ)が生えており、江戸時代に平賀源内がこの篠竹で、厄除開運・邪気退散の破魔矢「矢守(やもり) 」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。
 爾来、每年正月初詣の人々に社頭で授与している。



新田大明神道



 これは現在の第二京浜沿いに建てられていたもので、文化十四年(1817年)四月に麻布日下窪講中によって再建された新田神社への道しるべである。



力石



 力石(約180~240Kg)は、昔、若者たちが力くらべに用いたものである。
 現代とは違い、娯楽が少なかった時代には祭りの日、若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納した。
 カくらべの行事は、娯楽の面だけではなく力石の多くが神社の境内にあることからも本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼札の一つでもあっ。



石の卓球台



多摩川アートラインプロジェクト
浅葉克己作『石の卓球台』
ストリートピンポンの舞台としてだけでなく、近所の人々が集まる場所として愛されることを願って作られた作品です。
每日(午後五時まで)、無料でラケット・球をお貸しておりますので、社務所に声をかけて下さい。
希望者が多い場合には「三十分交替」でお願 い致します。
真夏日・雨天・イベント時など使用できない日もあります。


うなる「狛犬



 謀略を企てた足利基氏(もとうじ)家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社付近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。
 しかし、残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。


御神木(欅(けやき))




 この樹齢七百年に及ぶ棒は過去に落雷や戦災によって、幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々として葉を繁らせる。また、古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」が寄生しており、早春、淡黄色の小花が咲く。
 このために、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若作り」の霊験があるという古老の言い伝えがある。
 この御神木の御加護をいただくには、左側の島居より中に入り、できるだけ長く御神木に触れて、霊気を感じ取って下さい。
尚、島居への出入りの際には御一礼下さい。




鳥居





神社前の看板

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1枚目

御祭神
従三位左兵街佐源朝臣 新田義興公(さひょうゑ のすけみなもとのあそん にったよしおきこう)

創祀 正平十三年(1358年)十月

由緒
昔、日本中で戦いが続いて いた「室町時代」 。
新田義興公にったよしおき こう)という、とても強くて 勇敢な武将がいました。
義興公は新田義貞公(にった よしさだこう)の次男として 生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。
青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の 位と義興という新しい名前を授けて下さいました。

その頃日本は国が南と北に別 れい争いを繰り返していました。
義興公は天皇を守るために戦いました。
そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、 武将として有名になりました。
大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。

敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでし た。
そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。
敵の竹沢と江戸という武士が、 味方の振りをして義興公に 鎌倉で戦うことを進めました。
それを信じた義興公は鎌倉へ 行くために多摩川の矢口の渡 というところから船に乗りました。
ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです。(一三五八年十月十日)

義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議な ことが起こりはじめましだ。
夜になると、ぽうっと怪しい 光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。
それから、もっと不思議なことに、義興公を裏切っだ人は 次次々と義興公の恐霊に悩まされ狂死しました。
それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために、義興公の境墓の前に神社を作ることにしました。
こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。
やがて義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せは導 く霊験あらたかな神様】として人々から広く崇敬されるようになりました。

義興公の物語は江戸時代には 平道源内よって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、その壮絶な生涯は今も語り継がれでいます。


2枚目

新田大明神の御神德
家運隆昌 家内安全 厄除招福
必勝開運 恋愛成就 合格成就

●新田神社にまつわる七不思議●
一、新田義興公の自刃後、七日七晚、雷が鳴り続き、謀略によって手柄をたてた江戸遠江守が矢口の渡に再びさしかかると、天俄かにかき曇り雷火が轟き黒雲の中より義興公の怨霊が現れ、それに驚いた江戸遠江守は落馬し、狂い死にをしました。
また、その後も義興公の怨霊は「光り物(火の玉)」となって、矢口付近に夜々現われ、雷を落としたといいます。

二、神社後方の御塚は義興公の御遺体を埋葬した円墳で、入ると祟りがあり、『迷い塚』荒山』ともいいます。

三、御塚の真中にある『舟杉』は義興公の乗られた舟と鎧を埋めたものが杉になったものだといいます。(残念ながら雷にて焼失)

四、御塚後方にはえている竹は源氏の白旗を立てたものが根付いたもので、『旗竹』といい、雷が鳴るとビチビチと割れたといいます。
江戸時代になると、蘭学者である平賀源内がこの不思議な竹で『矢守(破魔矢の元祖)』を奉制し、新田義興公の護身徳を広めることを進めました。
以来、『矢守』を『厄除開運・邪気退散の破魔矢』として正月初詣の参拝者や祈祷者に授与するようになりました。

五、謀略を企てた畠山一族の者、また、その子孫の者が新田神社付近に来ると決まって雨が降り、『狛犬』がうなったといいます。

六、昔、雷が落ち、また戦災の被害にあって真二つになってしまった樹齢約七百年の『御神木(欅)』の上部には、珍しい『宿り木(植物の一種)』が生息しています。
そして、この御神木に触れると健康長寿病気平癒.若返]のご利益が授かるという古老の言い伝えがあります。

七、悪計に加担した矢口渡の船頭が後に前非を悔い、『地蔵』(頓兵衛地藏)を建立しましたが、この石体が崩れて溶けているのは、新田義興公の祟りによるものだといいます。
別名「とろけ地蔵」とも呼ばれています。


後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。



3枚目


義興公は父義貞公の遺志を継がれ
新田一族を率いて吉野朝 (南朝)の興復に尽力され、延元二年十二月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌三年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。
正平七年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。



4枚目

その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし) ・上野(こうづけ)の豪族などに擁立されて再び東国に入られました。
この事を聞知した足利基氏畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てますが、常に失敗しました。
そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。



5枚目

正平十三年(1358年) 十月十日、江戸氏の案内で 多摩川の矢口の渡から舟に 乗り出すと、舟が中流にさし かかる頃、江戸・竹沢らに いいふくめられていた渡し守は、 櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、 あらかじめ穴を開けておいた 舟底の栓を抜き逃げました。 義興公を乗せた舟は敵に 襲われて沈んでしまいました。


そして、同年十月二十三日に悪計加担の 渡し守は難船水死し、 江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、 落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。



6枚目

この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ましました。
そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳基が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉りました。



◆矢口南児童公園

新田神社すぐ前。




続く。