2020/03/31 洗足池散歩 06 池月橋/洗足八幡神社/桜(洗足池公園内)/桜山/洗足池弁財天/八つ橋/妙福寺

コチラはすべて洗足公園内。


◆池月橋







◆洗足八幡神社


神明宮



楽殿



名馬「池月」




 治承四年(1180)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
 或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを池月と命名し頼朝の乗馬とした。
 寿永三年(1184)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
 ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。



 池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。 治承四年八月(1180)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤(つねたね)、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月(こうげつ)清水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向って飛来 り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
 郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ 恰も池に映る月影の如くであつた為之を池月と命名して自らの料馬とする。
 頼朝先に磨墨を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く揚げ教声やまざりしとか。
 当八幡宮の別名を「旗上げ八幡と稱するはこの故事による。寿永三年春(1184)頼朝木曾義仲を京師に攻む。義仲字治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々類朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季(かげすえ)は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ字治川先陣争いである。
 池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
 この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
 古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名に もなってゐたが、今はない。 遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変選と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
 尚磨墨を葬せし磨豊塚は南馬込に現存する。
 氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九 月の祭日に奉納されてゐる。
  池月の
     蹄(ひづめ)の音か
            揆(ばち)の冴え



鳥居1



鳥居2




◆桜(洗足池公園内)








◆桜山







◆洗足池弁財天



創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕 に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立 の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮(ちくとうせんぐう)の運びとなり、以来今日 に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。





◆八つ橋




◆妙福寺



こちら国の有形文化財とのこと。



小松稲荷


堂宇


馬頭観世音供養塔



 天保一一年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
 光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には
   堀之内
「北     道」
   碑文谷


「東 江戸中延」

   池上
「南     道」
   大師

「西 丸子稲毛」
というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
 この銘文から、もとは中原街道と碑文谷ー池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。
 江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。



袈裟掛けの松






弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830〜1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。



続く。