2020/03/31 洗足池散歩 07 勝海舟別邸(洗足軒)跡/西郷隆盛留魂祠/勝海舟夫妻の墓/桜広場/勝海舟記念館/洗足池図書館

こちらは洗足公園内が隣接している施設など。
しかし、洗足池を一周すると時間が結構かかるね・・・・。


勝海舟別邸(洗足軒)跡




 勝海舟 (1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽. 伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
 その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。
 明治二十四年 (1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。

  池のもに 月影清き今宵しも
        うき世の塵の跡だにもなし

 晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。

  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
         秋はにしきを織りいだすらむ

 明治三十二年 (1899年) 七十七歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
 石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。






西郷隆盛留魂祠




あした  おんぐう かうむ ゆふべ か
朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙(こうむ)り 夕(ゆうべ)に焚院(ふんかう)せらる、
人世の浮沈は晦明(くわいめい))に似たり
縦(たと)ひ光を回(めぐ)らさざるも葵(あふひ)は日に向ふ、
若(も)し運を開く無さも意は誠を推(お)さむ。
洛陽(らくようの)の知已(ちき) 皆(みな) 鬼(き)と為り、
南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしう) 独(ひとり)生(せい)を竊(ぬす)む。
生死何ぞ疑はむ店の附与なるをん
願はくは魂魄を留めて皇城を護(まも)らむ
獄中感有リ南洲




 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、暁年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(1877)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六 (1883) 年、その魂魄を招詞して留魂詞を建立せられました。留魂洞の名は漢詩「獄中有感(かんあり)」の「願留魂魄護皇城(ねがわくはこんぱくととどめてこうじょうをまもらん)」に由来ずるものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ッ木一ー五-九)の薬妙寺境內にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奧津城(おくつき)(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。




西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近案内図

1、面郷隆盛(南洲) 留魂詩碑
 勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。
 内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。 「願留魂塊護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。

2、留魂祠
勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かされると、彼らはその傍らに小洞を建てて「留魂洞」と名づけ西郷の霊を肥りました。詩碑と同じく大正2年に当地へ移設されたものです。

3、南洲先生建碑記
 留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883) に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。
 なお、4の追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。

4、勝海舟追幕碑
 大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂詞が建てられたことが記されています。

5、德富蘇峰詩碑
 昭和12年(1937 )数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった德富蘇峰(1863-1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。






勝海舟夫妻の墓



勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎(りんたろう)、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
 維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟山岡鉄舟・とともに幕末三舟と称せられた。
 洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十二年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
  別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた
     千束村の別墅に
         楓樹数株を植ゑて
うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを 織りいだすらむ
染めいづる 此の山かげの紅業は
  残す心の にしきとも見よ






◆桜広場






勝海舟記念館

コロナウィルスで休館してなければ中に入りたかったなあ。
出来て間もない施設。



◆洗足池図書館



勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代をけ抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「威臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4(1868) 年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や、池上本門寺での交渉を経て、「江戸無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く際、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。



西郷隆盛留魂詩碑
西郷隆盛を悼み、彼の三回忌にあたる明治12(1879)年に勝海舟が建立した石碑で正面に西郷の作詩を刻む。


勝海舟夫妻墓所
勝海舟とその夫人である民子の墓。海舟は明治32(1899) 年1月19日、赤坂の氷川邸で死去した。五輪塔の形式は海舟が生前に図案化して指示したものといわれ、「海舟」の文字だけを水輪に刻ませている。


南洲海舟両雄詠嘆之詩
昭和12(1937)年数名の者が計画し、海舟の門下生の一人、徳富蘇峰に詩を書いてもらい設立した。



続く。