2020/04/02 中目黒散歩 05 中の橋/菅刈公園/西郷山公園/西郷橋/渥美俊一記念館/南平坂

目黒川とさよならして北東に向かって歩く。


◆中の橋








◆菅刈公園





案内板

かなり退色してしまっているね。。。。



旧西郷邸時代からの樹

 ここにのっている5種類の木は、西郷邸時代から残っているものです。
 この中で、イチョウの木は、目黒区内で、最大級を誇っています。
 アラカシ、クスノキはもともと暖かい地方に生育する木です。
 もしかしたら、西郷さんが、郷里・鹿児島を懐かしむことができるように、九州から運んできたのかもしれませんね。



目黒区立菅刈公園の今と昔

菅刈公園のできるまで
 この公園は、西郷隆盛の弟で明治期の政治家軍人であった西郷従道の邸宅と庭園があった場所です。
 江戸時代、この付近一帯は旧岡藩(現大分県竹田市)藩主中川家の目黒抱屋敷(別即)であり、滝や池のある庭園は江戸の名所であったと伝えられています。
 従道は明治初年にこの地を取得後、洋館や書院を建造し、園も和洋折衷式に大改造を行いました。 「東都一の名園」 ともうたわれ、明治22年には明治天皇行幸が行われています。
 第二次大戦前に西郷家の敷地は旧国鉄等に売却され、庭園は埋められて、 戦後は国鉄の職員住宅として使用されていました。
 平成9年に行われた庭園調査で、近代庭園史上貴重な遺構が良好な状態で地中に保存されていることが判明しました。このため、区では公園を整備するにあたり、2つの流や池の一部を日本庭園として復原し、 かつて書院のあった場所に和館を新築しました。 和館には、庭園を望むことのできる部屋やお茶会などのできる和室があり、 この公園にかかわる資料などが展示されています。

旧西鄉従道の洋館
 この西郷従道邸においては、 明治13年(1889年)にフランス人建築家のジェール・レスカスにより、 木造総二階建ての耐震仕様の洋館が建設さねました。 鹿鳴館の時代を伝えるこの洋館は、明治期には、 和洋折衷式の庭園とともに華やかな社交の場として利用されていました。 また、 昭和8年(1933年モ)には、 洋館や書院などの建物と庭は共に国の史蹟指定を受け、我が国を代表する文化財となりました。
 この地が旧国鉄の所有となった後、 洋館は一時プロ野球国鉄スワローズの合宿所として利用されるなどしましたが、 (財)博物館明治村(愛知県大山市)に譲渡され、昭和39年(1964年)に移染されました。
 明治村は明治期の建造物の保存と活用を目的として設立され、本洋館の移染を契機として、昭和40年(1965年)に開園しましたが、同時に本洋館は国の重要文化財に指定されています。
 本洋館については、平成9年に区が行った調査により、 準物基礎に使用された石が確認され、洋館跡がほぼ正確に特定できました。そこで、公園整備にあたっての貴重な建物のあった場所の記念とするため、 洋館跡を石の縁取りで表示してあります。
 洋館のバルコニー前にある区内最大のイチョウの木や、芝生広場にある三尊石は往時の場所のまま、 庭園の変化を見守りつづけています。




菅刈公園和館及び復元庭園

普段なら建物内も公開しているようだが、コロナウィルスの影響で入れなかった。









明治天皇行幸




西郷山公園




美しい庭園で知られた西郷山
 このコースは全長3.1km。目黒川に沿って自然観察を楽しみながら歴史の跡を訪ねる。明治初期、西郷隆盛の弟従道(つぐみち)がこの辺りの広い土地を購入。以来西郷山と呼ばれてきた。
 従道はここに兄隆盛を迎えようとしたが、西南戦争に敗れた隆盛は鹿児島で自刃。そのため従道の別邸に。
 洋館、和館と美しい庭園で知られたが、明治天皇行幸した往時の栄華は今はない。洋一館は犬山市明治村に移築。
 昭和56年、一部が公園に生れ変わった。園内には西郷家の郷里鹿児島から贈られた木々や、桜島の溶岩を使った公園の由来碑も立っている。














◆西郷橋











渥美俊一記念館




ニトリグループが故・渥美俊一氏を検証するために生前の自宅を改装して設立された記念館とのこと。
しかし、気軽に入れる場所ではないみたい。
こちらに訪訪された方の記事があった↓
渥美俊一記念館訪問記


他には、『節税と言う名の脱税目的、保養所と言う名目の個人宅だと思われる』などと書かれているものもあるが・・・・・・。
どちらにせよ、渥美俊一氏をいろいろ調べると、凄い方なんだね。
渥美俊一 - Wikipedia





◆南平坂

急にものすごい豪邸が建つエリアに入った。
坂の説明板などは見つからなかったのでWEBで調べた。
profile/南平坂




桜が綺麗。






続く。