2020/04/09 梅屋敷散歩 03 梅屋敷第3架道橋/聖蹟蒲田梅屋敷公園/東蒲田1丁目歩道橋/大田区総合体育館/大正湯/旧貴船神社跡

梅屋敷駅付近のガード下をくぐって、京急線の反対側へでる。
その後は昭和島駅を目指す。



◆梅屋敷第3架道橋






近くにいたネコちゃん。




聖蹟蒲田梅屋敷公園

こちらの公園は以前来たことがある。
2017/03/05 part3 梅屋敷散歩 梅屋敷公園/椿神社 - ovanの社会科見学

歌碑がたくさんあるのだが、前回の記事で紹介していなかった。



狂歌堂真顏の歌碑(復元)



 昔、梅屋敷の 園内には数多ㄑの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つ
を資料をもとに復元したものです。

 文面は、
  
  旅人の神に手向(たむけ)の幣代(ぬきしろ)や
                白絹咲きし庭中の梅
                     狂歌堂真顏

であったと伝えられています。



梅路、梅志の句碑



 この句碑は弘化三年(1846)山本久蔵が梅路と号 L、建立Lたものといわれています.

しら梅の 梢や月の高みくら
          七十五歲 梅路

松竹は表にうらハ梅 の春
          六十五歲 梅志

弘化三の としきく月    梅家女誌

 また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。



山本久藏の句碑




 この句碑は、天保五年(1834)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は

 神酒ささぐ間に鶯の初音かな
           麦住亭梅久

とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが戦後の混乱期に姿を消してしまいました。



里程標(復元)



 昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さ は1mほどでその表面には、

          蒲田村
日本橋三里十八丁
           山本屋

と刻されていたと伝えられています。
 木戶孝充、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戶孝充の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。



明治天皇行幸



明治天皇と梅屋敷
 梅屋敷は、明治元年(1868)から明治三十年(1897)の間に天皇の九度の行幸がありました。
 天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(1873)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(1933)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(1938)に東京市へ寄付、さらに 昭和二八年(一1953)に大田区に譲与され、現在に至っています。



蒲田とあやめ



 明治三十五年、現在の大田区立蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開設された。6月になると、「あやめ」の花が一面に咲き誇り遠方からも見物客が訪れ、外国人も好んで立ち寄るほど蒲田はかつて「あやめ」がまちのシンボルであった。
 一方、平成二十八年四月、山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結した。山形県長井市「あやめ」がまちのシンボルになっており、市内には日本有数のあやめ公園があり、長井独自の品種である長井古種が植えられている。
 共に「あやめ」がシンボルとなっており、山形県長井市とのご縁が出来たことを記念して、ここに山形県長井市より取り寄せた長井古種である「あやめ」を植栽した。



梅屋敷と和中散売薬所跡

 「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄か ら正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原(みなみはら)に三店が開業した。
 このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
 文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。




下記歩道橋上から。



◆東蒲田1丁目歩道橋

下は国道15号。
やはり橋名板が無かった。







大田区総合体育館






◆大正湯




銭湯♪




◆旧貴船神社




 此の図は大森堀之内が現存する唯一の絵図です。
 江戸名所図会(蒲田里梅園) 天保5年(1834年刊)安藤広重の描いた梅屋敷
 (俳句)元禄時代俳人 服部嵐雪   俳句「梅干を見知て居る梅の花
右下の神社は、江戸時代の堀之內に只一枚存在する、貴船神社と大塚五郎右衛門宅と茨田宇兵衛さん宅と思われる絵図です。
尚、文明十二年(1481年)太田道灌が「平安紀行」に今に残る貴船神社は、大森村海道より右にあり、この地の産土神にして……と、この地の木陰に憩いて有名な歌一首

「大森の木の下蔭の涼しさに知るも知らぬも立ち止まりけり」と詠んでいるのです。






続く。