2020/04/19 大森散歩 01 大森町駅/大森町共栄会/大森湯/谷戸三輪神社/大森三輪公園/燈籠台石(東海道常夜燈)/大森西図書館

24時間勤務アケで、京急大森町駅から京急立会川駅まで散歩。


京急大森町駅から立会川のある北ではなく西へ。
JRの線路のある方に向かう。


大森町駅

スタートの京急大森町駅






大森ふるさとの浜辺公園
「大森ふるさとの浜辺公園」は2007年(平成19年)4月につくられた水辺で憩える海浜公園で、 子供たちが浜遊びの出来る公園として親しまれている。



大森町共栄会




◆大森湯

銭湯♪







谷戸三輪神社




 往古、鎌倉時代幕府の家人、此地を領せし故、谷戸の地名興りしと謂れます。口碑、伝承に因れば、此集落の西端れ杜木立のうちに氏神さまを祀りたる小祠ありしが、江戸時代の初期の頃、地震、洪水など天災地変相次で起りし故、里人ら相計り、当時、出雲信仰が朝野の崇敬を集むる時勢に鑑み、里人らもまた、深く信仰する大黒さま(大国主命)を勧請し、諸災祓除五穀豊穣の願いをこめて、堂宇を改め、第六天社と称え奉ったとされます。此頃、谷戸部落は二十数戸と覚しき辺鄙の里に過ぎざりしが、人々の信仰心厚く、凪し早くから社殿を整備し、之を宜く護持した別当寺は密乗院大森寺でありました。
 爾来、幾星霜ともなく西大森村の鎮守として人々の崇敬を集め、里言葉にて、”でえろくさま”と、親しみ称え奉り、また、数少ない北向きの社としてもその名が知られ、文化文政時代の御社殿は間口二間、奥行九尺と古書に記されております。
 時代降って、明治維新に際しては、神仏分離令の布告、神社明徴化の機運に伴い、明治七年、社号を三輪神社と改め奉りましたが、此頃の氏子は四十二戸、二百三十六人でありました。更に時移り、太平洋戦争中、空襲に因り、全社殿を焼失しましたが、氏子一同宜く再建に努め、また、戦後の宗教改革に当り、宗教法人の認承を受け、昭和二十九年宗教法人三輪神社と改りました。末社、稲荷社は年代不詳ながら江戸末期の創祀と伝えられ、祭神は宇迦之御魂命と称え奉り、宇迦はウカ(食)にして食物一切を司さどる霊験あらたかな庶民の守護神であります。



稲荷神社






楽殿






◆大森三輪公園






◆燈籠台石(東海道常夜燈)

大森三輪公園内にあった。



東海道常夜燈の復元について
 「東海道常夜燈」は、江戸時代後期(十九世紀初め)、かつての東海道大森間(あい)の宿のうち「谷戸の宿」といわれたところに建てられていた。古老の話によれば、現在の大森中一丁目十八番付近で、そこには明治時代にできた天神社があり、その前の旧道に建っていたという。しかし、大正十二年の関東大震災によって倒壊、破損した。その後、東海道第一京浜国道(昭和二年完成)として拡幅された際、台石等は地元旧家宅二軒に順次移管され、さらに三輪神社 (大森中三丁目十七番十五号) 境內に移設された。
 昭和六十一年六月、三輪神社の社殿の改築及び境內の整備に伴って移転する必要が生じ、神社から区教育委員会に寄付された。教育委員会
前方(まえかた)八幡神社(大森中三丁目三番八号)の神前燈籠が、この燈籠を模して建立したと伝えられるので、これを参考に復元し、当地に建立した。




燈籠台石(東海道常夜燈)
 江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々が建てた常夜燈である。
 もとは谷戸の交番付近(大森中一ー十八付近)に建てられていたが、東海道第一京浜国道として建設されたため移転を余儀なくされ、転々とした後、大森中三丁目の三輪神社にあった。
 昭和六一年(1986)、地元より教育委員会に寄付され、ここに移設する際、戦災で失われていた火袋(ひぶくろ)、竿石(さおいし)を修復し燈龍として復元した。台石の正面の彫刻は、富士山が庚申の年に出現したという伝説を表している。



「富士山が庚申の年に出現した」というのが気になって調べてみた。
「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承があるようだ。
ということで、富士山にとって庚申の年は特別な日のようである。
こちらのHPに詳しく載っていた↓
フジレキシ: 富士山における庚申縁年




◆大森西図書館




続く。