2020/04/23 山王散歩 07 伊藤児童遊園/原っぱ公園/三間通り・共栄会/蛇窪村/蛇窪神社(天祖神社)/都営浅草線中延駅

第二京浜国道1号)のやや東側を北上し、最後に第二京浜沿いにある中延駅へ。



◆伊藤児童遊園




◆原っぱ公園






◆三間通り・共栄会

商店街♪




◆蛇窪村



現在の二葉、豊町、戸越、西大井の一部は、江戸時代初期までは蛇窪村と呼ばれていました。
鎌倉時代、此の地に生息していた白蛇が、地元の人の夢枕に現われ、お告げにより弁天社を建立されました。
現在、この地に暮らす人々や町会、商店街、企業などが手を結び、「スネークタウン」として町おこしを行っています。




◆蛇窪神社(天祖神社


<パンフレットより>
 文永8年(鎌倉時代1272年)11月10日、 北条四朗左近大夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在の品川区二葉四丁目付近)に残って当地域を開くよう諭して、自らはこの地を去りました。
 その後、時千代は、法園上人(ほうえんしょうにん)と称して大森(大田区)に厳正寺(ごんしょうじ)を開山し、家臣の多くは蛇窪付近に居住させました。現在、厳正寺の壇徒がこの地域に多いのは、こうした理由に
よるものです。
 文永8年の秋から50年ほどを経た元享(げんこう)2年(1322年)武蔵の国(現在の東京・埼玉)一帯が大早魅(かんばつ)となり、飢饉の到来は必至と見られました。このとき、厳正寺の当主、法員の甥の第二世法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戊亥(北西)の方向にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の赤誠(せきせい)(偽りや飾りのない心。まごころ。)と神霊の冥助(みょうじょ)により、大雨が沛然(はいぜん)と降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
 これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請し、神恩にこたえて祀りました。これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。(荏原区史)
 なお一説には、鎌倉時代に、この地の豪農、森屋氏(現姓森谷氏等の先祖)が建立したものとも伝えられています
 当社の旧社名は神明社でしたが、その後、村社に昇格して「天祖神社」に改名されました。
 令和元年5月1日より、御大典を記念し、また、地域の発展を祈念して、神社名の問い合わせの多い別称「蛇窪神社」を通称表記に格上げすることになりました。



稲荷神社




稲荷社のいわれ
 お稲荷さまは、京都伏見稲荷大社の御分霊をお紀り申し上げています。
 元享二年(1322)に武蔵の国を救った雨乞いの断食祈願に基づいてお祀りされ、明治十二年の神社明細帳にその名が見られる事から、相当古くから祀られていることは確かです。
 御神德は、衣食住を司り、私たちの家業繁栄、家内安全を昼夜の別なく御守護下さっています。
 現在の神殿、上屋、燈籠などは、櫻井昌利氏はじめ氏子篤氏家の寄進によるものです。






白蛇様

もとからここにあったんだろうか?



弁天様あたりが工事中で中に入れなかった。

2016年撮影




2016年撮影

白蛇縁起
 鎌倉時代天祖神社の社殿の左横(現在の消防团詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに自蛇が住んでいました。
 時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。
 あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に自蛇が現れ「1日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。
 森谷氏はこの話を宮司に伝えて、自蛇をもとにもどすよう願い出ました。宮司は弁天社【琵琶を奏でる姿から音楽や芸道の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、安芸の宮島厳島神社の御分霊である弁財天を把る】を建立することに決め、現在の駐車場地に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祀ることにしました。
 古老の話によれば自蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでのかがやくばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。
 戰後昭和二十九年に櫻井昌利氏(鳶頭)をはじめ有志の方々の御浄財により、お社は現在地に移され、上屋や弁天池なども造営されました。
 当社の弁天社の自蛇は標井氏の雇員である真鍋勝氏の手造りにより奉納されたものです。真鍋氏は機井氏を終生の主人として仕え、その忠誠ぶりは誠に真撃なものでありました。
 そんな真鍋氏の魂が自蛇に乗り移ったかのように、自蛇はいつも優しく弁天社の岩屋の上に静かにただずんでおります。かって標井氏はこの天祖神社の境肉で自蛇を見たと言われます。白蛇は弁財天の使者として、いつでもおそば近くで弁財天をお護りしているのです。
 それはあたかも私たち氏子全体を御照覧下さっているようでもあります。自蛇は、この土地や氏子全体の守護神のような気がしてならないのです。
 当地名がかつて蛇窪と言われた由来から考えてみても、天祖神社は弁天さまと蛇との密接な因縁があることが理解されます。
 私達はこの自蛇にあやかって、平素清浄な心と優しさを持って生活して行きたいものです。





鳥居




◎旧檜の大鳥居
 大正初期、 土地の有志が発起人となり、建立されました。
 昭和20年の空襲で、本殿や境內建造物、樹木等が丸焼けに なりましたが、大鳥居のみが戦禍を免れ、その不思議な神の御加護により氏子全体をご照覧くださいました。
 昭和49年、氏子篇志氏家の熱意により、銅で修復され、歴史とともに約百年、平成30年8月に安全性を考慮して、惜しまれつつ解体されました。
◎新檜の大鳥居
 蛇窪神社鎮座七百年記念事業(奉賛募金期間 平成30年12月20日~令和3年20日)の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、令和元12月26日氏子崇敬者各位の御奉賛により建立されました。




以前来たことがあるが、この時は「下神明天祖神社」となっている。
2016/05/22 part3 伊藤博文墓所/下神明天祖神社/荻窪白山神社 - ovanの社会科見学






◆都営浅草線中延駅



手前の道は国道1号





今回の旅は坂と情報量が多い!
散歩の途中も後もものすごく疲れたのであった(w
馬込文士村として公園なども整備されているので、休憩する場所はいっぱいある。
休み休み歩けばよかった。